120628

思い込みが他人と関わるうえで障害になることが多いということに遅ればせながら実感を伴って気付くことができたのが、一昨年、個人的にとても苦しいことがあって、生き方というと大げさかもしれないけれども、対自、対他ともに接し方、考え方を根本から変えないといけないなと思わされ試行錯誤を続けた期間の収穫のうちの大きな一だったと思っています。音楽を作ることに関わってもその考え方は自分に大きく影響したと思っているし、だいたいこの二年間に作った、自分の中で割と新しいものと捉えている曲はどれもその考え方の変化の影響の与えたものがはっきりと加わっているように、少なくとも自分では思う。

自分自身の変化というのは、それのもたらす違和感の変遷との間に不思議なタイムラグがあり、次に向かうべき方向が見えてそちらへ向かって意識的な努力をしている、変化の初期段階のうちはその前後の状態のギャップがむしろ違和感というよりも変化の手応えとしてどちらかというと歓迎すべきものとして、多くは外的な感覚として受け取るもの、というふうに感じられる。しかし変化の後半、はじめ向かおうとしていた方向に確かに1、2歩近付き、なにかしら求めていた技術ないし状態を獲得し無意識にそれが振るえるようになってくると、うれしかったはずの違和感が今度こそ内的な違和感として感じられるようになってくる。ともすれば喪失感とも言えるような寂しさを伴い、まぁそっからまた意識的な選択、その喪失感と付き合って顔で笑って背中で泣いていくのか/なんかしら取りに戻るべきものがやはりあるのかっていう話になっていくと思うんだけど(この文体疲れた)、きょうさっき、今年に入ってから文字通り量産した曲のデモ群を聞き返してて、音楽に関していうならば、確かに個人的な思い込みに視界を閉ざされた独り善がりの表現は大抵クソで、普遍性がないとも言えるんだけど、確実に表現者個人特有の思い込みに依っている/出発点をおいているものが俺は好きなんだなあと思った。この関係は矛盾しないフェイズでねじれの構造をなしていると言えるならすんなりまあ当然のこととして受け入れやすいけれども、必ずしも違う次元の話ではなく、場合によってはまったく同じ曲を差して好きだ/嫌いだということがその瞬間の気分で変わってくることもある、などと言い出すとこの話し自体が不毛だと結論付ける方向に自ら誘導することになってしまうのだけれども…

これは文章化できるレベルでということなら新しい気付きであることに違いはなくとも、むしろ思い出したという感覚に近かった。そんときに自分自身の変化とそれのもたらす違和感のタイムラグの現れ方が面白いなあと思ったのね。ここまで文章で追いかけながら自分で整理をつけているうちにそのタイムラグになんら特別なことはなく当然に現れるべきものなんじゃん?とも思えるけれど、自分で納得し完結させ得る内容を除外していくとブログは必要ないということになる、繰り返すうちにおれ自身にも読者の方々にとっても、有意義に前方に向かって問いかけるようなとでも言うべき文章を書き残せるようになるのじゃないかという期待を込めて投稿ボタンを押しては悔やみ、を続けていこうと思います。

音楽なんて音楽なんだからどうやって作るか考えてんのは違うでしょなんて言えるのは天才だけで、社会参加できていないとはいえ凡人的な感覚(語弊ありそうだな〜これ)の持ち主でありそこから抜け出し得ない俺はやっぱり色々とごちゃごちゃ考える。こんなふうに言語化できるレベルのことなんて考えたことのうちにも入らないようなことでしかないんだけど。いつか音楽をやめるときに自分を納得させるための言い訳を今から準備しているという見方もできるわけだけれども。音楽をすんなり辞めていった友達はみんな今ではきらきらしているように思える(これもひがみなのかただの不安の拡大鏡なのか)。考えずに渡っていける才能も辞めてスマートにほかのことやって生きていけるセンスも俺にはないと思うけど、だからこそ思うことや歌えることがあると思うよ。それがすっと多くの人に伝わっていくような環境に俺が行けたら、ひとまずいいかなと今は思ってる。がんばりますよ。なんなんだ今日の記事。