(この、惜しむべき)秋の終わりを迎えるにあたって

最近こころを奪われたものシリーズ・ジャスミン?の花
夜中の散歩でいつも通らない道を通ったらちょっとキツめのいい香りがして、これが12歳まで住んでた金沢のうちの庭にあったのと同じ花の香りだった。
ひじょうに懐かしく一周回ってむしろ新鮮な気持ちになった。そのとき聴いてたハンバートハンバートの音楽がすごい相乗効果をかもしたのに対し、シャッフルで次に流れたノラジョンズはそのときの気分にそこまでしっくり来なかった。ノラジョンズは大好きなんだけど、リバーブの感じとか英語の発音のあの感じとか、個人的に懐かしく感じる匂いに合うもの、精神的原風景にはやっぱり日本語の歌が寄り添うんだなあ と深く納得させられた時間でした。
でも実はそれがジャスミンだったのかはちょっとわからん、おなじモクセイ科ではあると思うんだけど…誰かこの時期に咲く花、腰くらいの高さの植え込み樹で白い小さい花がたくさん咲くもの、心当たりないですか?



ふくろうず内田に本を貸してもらったのでしばらくぶりに活字を勢いよく読んで、ブログ熱が再燃してる。こないだインターFMに行ったときパーソナリティの方に「シンガーソングライトブロガーってどういうことですか」ときかれて、確かに「ただの冗談です」っていうのはあまりに無責任かなあと思わされた。(冗談が通じなかったときに自分のセンスのなさを責めるっていうことは日常ままある。学習したい)
かといって最近録音とミックスで閉じこもってたから特に書きたいできごともない。気候がよすぎてついつい感傷的になりがちだから夜中の手紙形式の後悔を味わうことが目に見えてうかつなことも書けない。なに話そうか。



秋って一番好きだけど考えてみるとはっきりした思い出の少ない季節かもしれない。湿度とか気温とか風の感じとか、アトモスフィア的な要素のほうが印象が強すぎて、しかもそういうものって毎年だいたい同じだから記憶の更新と保存が容易どころかむしろ不可抗力的に行われるから、かね。
もちろん秋の思い出がまったくないわけじゃない。高校のときに文化祭の日を休みと捉えて奥多摩に行ったこととか、翌年の文化祭の日も同じく奥多摩に行ったこととか、翌日の文化祭片付けの日にはきちんと参加したらなぜか担任の先生に帰りのホームルームで褒められたこととか。(担任の田浦先生には本当にお世話になった。卒業できるか微妙だったところほうぼう頭下げて回ってくださったらしい。おかんはそれを、おれみたいなのをもう一年学校に置いとく方が迷惑だったからだろうと言ってた。納得のいく解釈だった)
とまれ秋は本当に好き。夏は暑すぎるから、冬は寒すぎるからという理由で曲作りが進まないけど、秋は気持ちよすぎて曲なんて作ってる場合じゃないからと理由付けするくらい好き。ちなみに春も気持ちよすぎるけど花粉症がひどくなった20歳くらいを過ぎて以降はふらふら外に出る気が少し削がれるようになったから、リリースされてる曲には春の曲が多め。こないだ出したtokyo2012って曲も本当は春の歌だから、今きいてくれてる方には来年の春にもまたじっくり聴いてみてもらえたら嬉しいです。



続けて自分の曲の話になるけど、数少ない秋の曲としては“狐の嫁入り”というのがある。季語としては夏のものらしいけど、2010年の夏が終わって涼しくなり始めた頃に(2010年の春から夏にかけては「setagaya wandering education」とうフルアルバムサイズのめっちゃ暗いCDRを作った。それを作り終えた直後くらい)、犬の散歩をしてたときに降ったお天気雨に着想のあった曲。メンバーがのきなみやたら気に入る曲で、メロディーとコードで曲が進行していくインJPOPセオリーな曲(例えば“夜風に吹かれて”とか“春”なんかが割とそう、なのか?)と反対にリズムとか楽器のアンサンブルが先に立って曲が成り立っていくタイプの曲は「はじめなかおわり」以降には少ないんだけど、それ以前にはむしろメインどころだったんよね。屈指のよしむらひらくリスナーでもある鍵盤山田と話してて「オルタナ感(笑)」といえばわかりやすいんじゃねえかとまとまった、その感じの曲もまた頑張って作ってみようと思ってる。そういうのむしろ本分じゃん、と。
しかし秋が終わってしまう。どう頑張っても季節は変わるし、どう頑張っても季節には抗えず、屈して秋に夜通し散歩に出てしまったり冬に布団から出られなくなったり、春に子供みたいに若返ってしまったり夏にえらくやさぐれてうらぶれた気持ちになったりしてしまう。成長したい願望は強いけど、そういうのに揺さぶられる心は失くさず持ち続けたい。くるりの曲にそういうフレーズあったよね。