ゆーきゃんレコ発ありがとう

今年もついに夜中に部屋の窓を開けてパソコンに向かっていられる時期が来た!この一週間くらいコートをほとんど着てない。
季節が変わるということは時間が過ぎてるということで、365の倍数日前と同じ季節がやってくるということは過去を振り返らせる、言葉の意味としては矛盾するけど、パッシブな態度のアラートのような。

今日はなかなか普段できないくらいのいい演奏ができたと思う。ぐったり疲れてるけど、それが心地いい。文章を書くのも覚束ないけど気分がいいので書くぞ オラ



ゆーきゃんがずいぶん前、もう3年か4年か前のブログに、「昔ははやく枯れたいと思っていた、自分の若さが嫌だった、けれども云々」というようなこと(失礼なまとめ方かもしれないが)を書いていて、その当時まさにはやく枯れたいと思っていたはたち過ぎのおれはしたたかに一撃受けて、その考え方については少し慎重に見つめ直してみようと思った。しかしどんなに尊敬する人の言っていることでも、自分で身を以て思い知らされる験を経たものでなければ、結局は他人の言う事であって、それはただの知識に過ぎない。自分の外側のもの。
だからいまおれが年を取ったな、時間が過ぎたな、としみじみ思うことは、それへの憧れに多少なりと方向付けをされ導かれた過去は確かにあれど、ゆーきゃんの文章から直接読み取り教えられたものとは言えない。
それよりも大事なことと思うのは。
おれが時間の流れを自然と恨めしく思うようになったいま、ああ、あのゆーきゃんの文章に書いてあったことの意味を何割かは体感しているのかもしれない、という気付きの味わいがあるのは確か。そしてその味わいが次の自分の生き方、考え方の方向付けにまた多少なりと影響を与えていることも疑い得ない。
おれにとってゆーきゃんの存在はこの先少なくともまだしばらくは、そういうもの、であり続けるだろう、という予感は自然に有効なものとしてある。そして、本当の学びというのは自分の体で味わった経験の上に立つ臨床の知を持つことである以上、そのために必要な最大の教授は、自然と微かな方向付けをしてくれる、まさにおれにとってのゆーきゃんのような存在なのだと思う。
自然と、というところが大事なのだけれど、なにものにも影響されない完全に自然な存在というのはあり得ない。少しずつ影響し合ってからみあっている中で、自然であることの難しさは計り知れない。他の何をも否定することなく、かつ自分自身を一番大事にできるか、こだわることができるとしたらそれぐらいのもんだろう。





はたちになってからもう5年半。5年て、いま25のおれにとってはまだかなり長い時間のように感じられる。はたちの誕生日に友達にもらって五年半毎日持ち歩いてた定期入れを今日失くした。しかもそれをくれた友達、きょうのライブに久々に来てた。でも今までも決定的紛失からおれの手もとに帰って来てるものだから(二回、警察署に取りにいった。そこらの道に落としたのに優しいひとが届けてくれたから)明日か、交番から警察署に集められるのを待ってあさってか、電話したらひょいと出てくるんじゃないかと楽観している。




ゆーきゃんレコ発、最高の夜だった!




バカを騙して儲ける音楽とか、劣等感で連帯するための音楽とか、わりと氾濫してるなかで、自分はまともに生きて音楽を作って行きたいと、それは確かに外から見れば無意味なこだわりに違いはないだろうけどもさ、しかれども。迷うことはある、互いにどう見えるかはもういいやな、余所のことはいい。卑屈だなあと自分でいやになることもそりゃああるけども、心のなかではきちんと線を引いていく。