haru130311


この二年間でみんなそれぞれなんかあるだろうけど、おれは、言いたいことは別に音楽になんかしなくても口で言えばいいってことを教えてもらった。そのために必要な強靭さとかももちろんあるから、とうぜん簡単な話じゃないけど。

音楽含むいわゆる芸術表現と、言葉でただ話すことの優劣の関係についてはそれ以前からもずっと考えてきたけど、一晩寝ないままでさっき風呂から上がろうとした瞬間にはたと、言葉と芸術の間に沈黙があるんだってことに気付いた。
言葉は沈黙に飲み込まれることがあるけど、沈黙のうちに育つものの中には芸術で表現できるものがあって、でも芸術よりも分かりやすい言葉が切実に必要とされる場面も確実にある。言葉<沈黙<芸術<言葉<沈黙…というジャンケンクラスに単純な規則の連環かと一瞬思ったけど、そんなわけもなく、三者はそれぞれに補完し合い反発し合う三つ巴の関係とも言えそうだと思った。寝てない頭で考えたことはだいたい翌日自分で一笑に付して忘れるけど、今日この日に初めて啓示的に感じられたということに意味を求めたくなる気持ちは、正直ある。バカだから。


音楽が本当に必要なのかどうかという問いは、要するにおれやあなたが生きている意味はなんなんだというのと同じくらいの切実さとどうでもよさで、だっておれがどうこう考えようとこの世から、たとえば仮におれがおれの頭の中で「わかった!音楽なんてものぁ必要ねえんだ!」と結論づけたところでこの世から音楽が無くなったりはしねえのだ。おれが生きていることも、なんだかそういうでかいものによってというか、おれの意思とは無慈悲なまでに無関係に、もうそこに既にあるもんだった。
相変わらずテレビで被災した人の話をやってると涙がだーっと出る。そのときに死んだ人の中にも、きっと自分が生きてる意味なんてあるのか?とずっと考え続けていた人がいただろう。でもほんとに死んじゃったらそこで本当に全部終わりだ。進行していく状況のなか核シェルターの地下で催涙弾のガスに目をしばつかせついに開いた扉からついに打ち込まれる銃弾の予感を一瞬後に感じながら「すべてよし!」と言って死んでいくのとすらきっと話が違う。
おれは一昨年の、たぶん秋くらいまでは、なんで自分が被災しなかったのか?おれは本当に自分が死んでしまいたかったと思ってた。でも二年経って、おれは今生きててたぶんよかったんだろうなと思ってる。当時の知恵熱出してたおれにそんなこと言ったらそれこそ殺されるかもしれんけど、「おれが死ねばよかった」なんてそんなことを言う事こそ、それこそ被災した人たちや亡くなった人の遺族の方からしてみたら一番腹立つんじゃないかと思うようになった。
死ぬってのは、ほんとに、どんな気分のことなんだろうな。

まあ健康状態には少々難ありだけど、五体満足で、健康な食欲と性欲と眠気にまみれて生きてる。友達にも恵まれてる。親もまだまあ元気だ。そんなおれがどうあがいても死んだ人や被災者と呼ばれてしまう人の気持ちがわかるはずもない。
でも持てる想像力の限りを尽くして考え続けていく。歌ひとつ歌うにも、もうずっとそのこと抜きではやれない。これから生きていくすべての瞬間にそのことが乗っかってる。たとえば初恋の人を思うとかいま好きな人のことを思うとか、こないだ昏倒した親父のことを心配するとかだんだん目に見えて老いてくおかんを見て笑っちゃうくらい切なくなるのとか、きちんと説明しようとすると面倒だからしないけど、ともかくそういうのとおんなじだ。
祈ることに意味があるのかどうかを考えるのはやめる、まあやめられないかもしれないけど、ともかくおれは祈ることにした。勝手に祈る。おれの思う誠意は、はたから見るともしかしたらただ不機嫌な顔をしてるだけに見えるかもしれない。




いつ始めようかとぐずぐずしてたけどきょうから新しい音源の録音を始める。今度のは完全に一人で部屋でおとなしく作る。
さっきマイクテストがてら録った一曲アップします。作品には入れないと思う。
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昔(というほど生きてないけど)の恋人が今度結婚するって聞いてなんかぐっと来て(切なさではない。感動した)なぜだか知らんがこれをずっと聞いてた。繰り返しますが音楽は生きることと同じように無意味で切実と思う。