おれたちに明日はないかもしれんが、まだわからん

もう一週間たっちゃったけど、ゆーきゃんチームとの旅行は本当に尊い経験になりました。ゆーきゃんはもとより、メンバーのみなさんと2日間一緒にいて教わったことらはしばらく反芻していて飽きません。わざわざこちらを向いて何段も階段を降りてきて話をしてくれて、本当に嬉しかった。


五年前に知り合って以来ずっと遠い存在と感じてきたゆーきゃんとは最近になって顔を合わせる機会も増えたけど、相変わらずほとんどじっくりと話をしない。恐れ多くもおれの仮説では、お互いに、相手の口から聞く話よりも、自分の持っている物語の中にいる相手の気持ちを想像して、それをけっこう楽しんでいる。そしてそれを直接伝えあうより胸の内に暖めたり、そのうち忘れたり、思い出したりする中で、タイミングが合えばブログに書いたりする。おれはおれの生活の中に時々ゆーきゃんが現れて、毎回その短い時間の中で残していくものをとても誇らしく思っていて、それをこうしてここに書きたいと自然に思う。

ゆーきゃんが今回の旅行について書いていた(書いてくれた、と言うべきか、やはり。迷う。ゆーきゃん自身の愉しみでも、恐らくそれはあるからね)日記
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おれはずっと、本当はゆーきゃんには音楽をやることは向いてないと思ってた。誤解なきよう無粋にも付け加えると、音楽の才能や能力がないなんていうことではない。そうではなく、この人は音楽をやることで、いろんな人と関わり合うことで、それを楽しんだり呪ったりする中で、この人の本来持っているものをむしろ縛り付け貶めるような、そういう事態に見舞われる場面が少なからずあるんじゃないだろうか、と思うということ。
今回2日間のバンドの演奏を聴いて、おれのその考えはなんと浅はかだったかと反省した。メンバー一人一人がセーブされた音量のなかで遠慮なくそこに居座り、自分の曲であるかのように演奏をする中に(本当に、全員が、すごいミュージシャン!)、コンダクターとフロントマンの強権をはっきりと振るうゆーきゃんがいて、おれはほんとに、心底敵わないと思った。確かにどこか縛り付けられ貶められながらかもしれないけど、それを引き受けた歌を聞かせてくれる。そういう歌はなかなかない。
まだギリギリ?遅くはないから、知らない人は急いでゆーきゃんの演奏を観に行ってみて。昔からゆーきゃんを知ってる人も、記憶の更新をしに行ってみてはいかがか。



ゆーきゃんの小さな声を慎重に聞いていると、諦めや悲しみを、本人が正直に表現しようとするあまり、美しさよりもその実在感の方を強く感じてしまうことがある。
歌や物語の中で、諦めや悲しみは、それを乗り越えて喜びに繋がるという筋に落とし込まれて、要は結末を盛り上げるための踏み台としての役割を与えられることが往々にしてある。ただ、表現者が正直になろうとすると、悲しみも諦めもちっとも乗り越えられていない自分に気づかざるを得ないはず。そしてそれに耐えてきた自分の強さに驚いたりするうちはまだいいけど、聴き手によっては想像もつかないサイズのそれを、うっかり手渡してしまうようなことも起こる。
むしろそうなればいいなと願いながら歌っている部分もたぶんある。さらにその責任をどうやって負ったものか、さすがのゆーきゃんもそこには途方にくれているんじゃないか。あくまでその想像を愉しみながら。少なくともおれはそう。

ゆーきゃんが日記に書いてくれて恥ずかしながら嬉しかったよということを書くのに、急ぎながら回りくどくなってしまったかしら。
ゆーきゃんの存在を知った頃にはこんな風に関わり合っていけるようになるとは思ってなかった。尊敬する人と関わり合っているという浮き足立った嬉しさもまだ確かにある。