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9/18・たまには本の話。でも結局ゆーきゃんの話しちゃう

明日のライブに向けたリハをやり、その後パーカッション金川とブックオフにいって本探し。
おれは読書家といわれる人たちから見たらほぼ何も読まないというくらいのもんだけど、大江健三郎さんの本で持ってないものが安くで置いてあるととりあえず買うようにしてる。大きい店にも案外何冊も置いてないし、どれを読んでてどれを持ってないのかがよくわからなくなるくらいそもそも大江作品が多い。自身で作品の中に、その意味で批判を受けるエピソードとしてよく書き込むそれ自体も含めて、ともかくどの作品でも言ってることがそんなに大して変わらないんだけど、おれは、金太郎飴というか、毎回同じ人に会える安心感というか、その変わらない感じを味わいたくて本を集めてるようなところもある。当然作品ごとに少しずつ変化していく、そのグラデーションの仕方を見るのも、大江健三郎という人と実際に付き合っているような感覚があってじわりと嬉しくなったり苦しくなったりする。ともかく持ってない作品は欲しくなるという作家がいることがなんとなく拠り所のようになっているのかも。よくおじさんが仕事以外に趣味を持つ、という感じに近いのではないかと想像してる。



一日三十分くらいの電車移動の間しか開かないから遅々として進まずだけど、いま読んでるのは井伏鱒二さんの黒い雨。昭和45年発行だから40年以上前の文章というのに、大江作品にしてもそうだけど驚くほどストレスなく読める口語で(おれ文語よめない)、というよりむしろ一番落ち着いて読めるのが自分が生まれたころまで、くらいの時期に書かれた文章だということなのかも。村上春樹さんとかにしても確かおれが生まれた頃にデビューしてて、まさにその風の歌を聞けとか、まだなんとかねじまき鳥あたりまではしっくり来るけど、ここ10年くらい?海辺のカフカとか?以降の新しめの作品に関してはなんとなく余所余所しいなって気分で読んできた気がする。内容じゃなく文章に起因する気分だと思うんだよなー。単純にお話の中に携帯とかeメールとか出てくるとなんだかなーと思うってのもあるかもしれんけど。おじいさんか。


2011年にシングル春をリリースした時だったと思うけど、オンラインショップ・サンレインレコードの管理人としてゆーきゃんが作品に寄せてくれたコメントの中でおれをさして「古いタイプの若者」といい意味とも悪い意味ともつかない評をくれたのを、今さらだけどこういうところもかな?とまた少し別の角度から納得した気がした次第。



今日偶然あった京都の若いバンドマンとゆーきゃんの話になって、ボロフェスタ関連の主要スタッフとして働くうちについにこないだ彼が倒れて病院に運ばれた、と聞かされた。まさに原爆投下直後の広島にあって、主人公がなんどもなんども行き当たる、直接連絡するすべのない者どうしが人づてに消息を伝え合う(しかも多くは偶然伝わる形で)その仕方とダブって感じられる話だった。もちろんいまのおれらには京都と東京の物理的距離に関係なくメールでもなんでも連絡を取り合うすべがあるし、その意味合いは全然違うのだけど。ともかく大丈夫なのかゆーきゃん。


たった10分でもヒロシマの描写に引き込まれたあと、電車が最寄りの駅に着いて席を立とうとすると足に力が入らない感じがする。