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10/13・イケてたいという思いはある/「大きな転換期」の自己催眠

なべての無意識は妥協から生れてくるので、男女の関係でも、精神と肉体との対立を妥協のうちにうやむやにしておくことによって、ことをうまく運ぼうというわけである。妥協だから処世術になるのだ。

 中略

精神と肉体の安易ななれあいにおいて、そのかげにひとびとははてしなく穢れてゆくばかりである。両者が分離されなければ、混合液は混濁のままにその純度を低めざるをえぬ。おもりを除かなければ、翼は高く羽ばたかない。

 中略

おもりを重くしなくては、翼は強くならぬ。軽いおもりのために飛べなかったような翼なら、それを除いてやったところで、どうせ高くは羽ばたくまい。


おれの思うイケてるやつの定義について書く。
音楽やってない人生を知らないのでそれが音楽やってる身だからこそ多い経験なのか、逆に音楽なんてやってなかった方が多くなっていたのか、わからないけど、イケてる人に出会うということがたまにある。
定義するものを限定していくための反対例として、劣等感で連帯することが目的になってしまった表現も、陶酔させるために事実から離れた表現も、目の前にあると冷静に看過し得ないほどに、嫌い。劣等感はそもそも各々の中で処理すべきものという理解は最低限共有されるべきだし、その葛藤を経た劣等感もそれがいかに美しくても優先的に表現された時点でなにかの妥協の証明になることはほとんど避けられない。あくまでフィクションにはならず、弱音も諦観も憎むべきものという前提に立っていなくてはいけない。これはほとんど譲れない。
10代の頃は不安定で、それがいい意味で作用したら一瞬の黄金期、おれの場合は小学校六年生の、卒業したら東京にいくことが決まってからの数ヶ月、それと高校三年生の、サッカー部とハンドボール部のキャプテンの二人だけが友達だった卒業までの半年間にそれがあったけど、それ以外はとことん、ひたすらイケてない奴だった。というよりイケてたいと思っていなかった。
イケてないという意味では今も大差ないかもしれないが今はイケてたいと思っている。割と高めの優先順位で、イケてたいと思っている。これは大きな違いで、イケていたいと思うようになったのははたちくらいの頃、音楽をやっているイケてる人たちに出会ったことが直接の要因になったんじゃないかと思う。

坂口安吾の本を初めて読んでいる。冒頭の引用は短編集・白痴に福田恆存という人がつけた解説の前半から。これが終戦直後の時代を代表するもののひとつとされた作家の小説につけられた解説の中の文章で、ざっくり言えば要するに、ある時には大正解とされた言葉ではあるものの、それはもはや60年以上前の流行だ。おれは戦後67年の今にあって、坂口安吾の白痴という本を、はじめの短編のはじめのページを読んだ時点で、それはおれの中でのイケてないと自覚する部分の感性の上ではあるものの、金言だらけ、と思ってしまった。
少し前のブログでいい意味とも悪い意味ともとれる、と触れた、一昨年にゆーきゃんからもらった「古いタイプの若者」評は、当然その両面をもち、つまりおれは坂口安吾の65年前の言葉に我が意を得たりと思い、その自分の感じ方を誇りに思うと同時に恥じもしている。そしてその動かしがたい感じ方への自己評価の両面のバランスの取り方は、おれのイケてるやつ像の在り方に無関係でないどころではない。

結構、ヘコんでます。




それがくる契機になったという意味で本当に作ってよかったと思えた「ときめきのメモリアル」の作業を終えて数日経った先月中頃から、久々に大きな転換期の強い自覚があります。半年に一度くらいのペースでやってきておれを支えてくれた、自己催眠とでもいうべきそのクライマクス感は、2011年に作った歌の中でアンチ・アンチクライマクスと呼ばれ登場したきり2年間ほど、抑え込まれてきていたように思います。いまおれはそれを恥ずかしくもアンチ・アンチ・アンチ・アンチクライマクスと呼んで、久々の、奇跡の再会と心の底から信じたいと祈るより少し確かに、そしてそのままそれに身を預けたいと、思っています。
イケてたいという思いを捨てないままに、おれはイケてないと認める、ということなのかな。今度のアルバムはその姿勢を表現できるものになると確信しています。