11/24・本音よ、最も美しくあれ3

僕は ー 思えばいまの息子の年齢だが ー 十七、八の時分にはじめてその衝動を自覚した際の、若者らしい名づけ方のままに、今もそれを跳ぶ(リープ)と呼んでいるのだが ー その跳ぶ(リープ)がやってきそうになるたびに、僕としてなんとか遠ざけようとし、そいつに自分を乗っ取られることを拒もうとしながら、しかし時には自分から、跳ぶ(リープ)の気配をむかえにでるようにして、奇妙な行動をおこなってしまうことがある。酒に酔っての愚行をふくめ、跳ぶ(リープ)は、程度の差こそあれ年に一度は僕を占拠して、もしかしたらその累積が、僕の生き方のコースを捩じ曲げてきたのかも知れぬほどだ。逆に、跳ぶ(リープ)が自分をつくったのだともいえぬわけではないかもしれぬが……
(大江健三郎「無垢の歌、経験の歌」)


自分が間違っているという視点は持っている。むしろいつでも自分は間違っていると思っている。でも同時に自分が世界で一番正しいよな?おれも、あなたも、あなたの嫌いなやつも、どう考えたって頭おかしいだろって奴がいたとしてもそいつも。


上の引用では何も伝わらないのかもしれない、おれは大江さんの読者であるから「この感じ」で済むのだけど、従って文章の一部引用ということの意義には甚だ不安があるのではあるけれども、だからまあ、読んでみて欲しいって言っちゃったらダメかしら?「新しい人よ目覚めよ」って中編短編集に入ってるんだけど(でももしできたら万延元年のフットボール、洪水は我が魂におよび、同時代ゲーム、と読んでから短編集にいって、何冊か読んだあとに新しい人よ目覚めよ、そんで、懐かしい年への手紙、といってほしいなあ、でも平等に評価するためには初期作品もスルーできないのかもしれない。もちろんおれも全部は読んでないし、読んだ本に限ったとしても完璧に理解しているとは口が裂けても言えないし、ていうか口が裂けたらもう話せないよね何も)


曲作りがその連続であるように、ブログにもボツがある。無名のブロガーがいかにしてボツポストを書き、途中で投げ出すかというのをたまには見てもらってもいいかなと思うので、下の方に今回のボツ、たたんでおきます。あまりに長くなりそうで、そんなことしてる場合じゃなくね、となりました。


さて引用した意図ですが、「その感じ」が伝わってると仮定しての話になりますが、もちろん先輩読者諸氏には非常に恐縮しながら話すのですが、大江健三郎さんが、匿名の大衆による常識的な視点から自分を卑下する形でやる自分の個性化、そして存在の肯定というか、諦観がありながらも自分が自分としてあることを信じているという表明、または狡猾な読者懐柔、これは作品作りそのものであると同時に、表現をしていくことと並行して必要なファン獲得の方法であって、しかし何より、これはもちろん想像でしかないけれど、自分自身を励ますことなのだと思います。

自分を憐れんだらお終いだ、とは随分前に小説かもしかしたらマンガかなんかで読んだフレーズなんだけど、それは意思の上での話であって、たとえば自分を憐れむ感情が、また何か他の、自分の美学に反する感情が、生まれてくることを阻止することはどんなに強靭な精神力の持ち主でも、それはほとんど無意識の領域のことだから、不可能であるはず。むしろ鈍感である方がそれを可能にするのには必要な素質と言えるかもしれない。無意識を意識することはある程度までは可能のように思うけど、無意識の源泉をコントロールすることは、少なくともおれにはできる気がしないし、そんなことできる人間のことを想像することもできない。

だから、人にできる最上の、美しくあろうとする努力とは、コントロールすることはできないけれど時たまちらりとその背を覗かせる無意識の源泉と思しき部分が、美しくありますように、と祈ることなのじゃないか?と思うのです。おれがもう長いこと変わらずに追いかけながら、それを目指しているとははっきり言葉にできずにいたのは、そういうことなんじゃなかったろうか、と。ただ美しいことを言う、というのにはあまり興味が無い。


無理やりこのタイトルのシリーズを完結に持ち込もうとしている感バシバシですが、坂口安吾の引用から始めたのにもその意図があって、この歳になって初めて読んだ読書ことはじめに挙げられるであろう作家の文章に導かれたとおれが強く感じたのは、そのようなことだったんです。この人は美しくあろうとするために辛辣と言われかねないことを言う。偽悪的といえば簡単だけれど、偽悪とか偽善とかという言葉自体は基本的には、現実には数え切れない数あるものごとのフェイズのうちのある二層(偽悪と善、偽善と悪)のみを抜き出して捉えることを前提としている。たとえばある意味では「堕落論」に書いた通りに50年後の日本人の多くが文明に頼った生き方をしている、それをいまこの人が生きて見ていたとしたら、またあまのじゃくなことを言っただろうという予想もしながら、しかし少なくとも生きていた時にこの人が言いたかった(または言葉にしたくはなかった?)ことは、本音よ、願わくば美しくあれ、ということだったんじゃないだろうか?と。自分の、または人間というものの核心がほんとうに美しければいいな、もちろんそんなことは誰にもわからないし、そもそもそんなもの、核心などというべきものがあるかどうか信じているとも言わないがね、と、少なくともおれにはそんな風なメッセージに思えた。というより、おれにとってずっと(はっきり言葉で捉えることのないままに)大事なテーマとしてあったものをいま一度認識させただけのことで、それは坂口安吾という人の作品の持っているイメージのいくつもあるうちのひとつをおれが勝手に自分の方に手繰り寄せて大事に抱え込んだだけ、と言った方が正確なんだろうけど。

なんだかんだ書き直しているこの記事の方が文字数が多くなってきているかもしれない上に、やっぱり何か話すのに長さを気にしていてはなあと思ってるけど、ひとまず今回は。続きを書く気がまた起きたら、そんな美学や個人の哲学(個人のものでない哲学というのがあるかしらんが)を音楽が超える瞬間について話したい。



ミュージシャンなら、ブログでなく、アルバムで語れと、言ってくださる方にも、もうすぐいいお知らせができそうです。
虐げられてきたなんて言い方すると被害妄想乙、しかし比喩的にでもそんな言葉を使いたくなるような境遇にずっとある。来年は復讐と奪還の年にしたい。気持ちだけではなく、作品とライブで。実際に。



僕は ー 思えばいまの息子の年齢だが ー 十七、八の時分にはじめてその衝動を自覚した際の、若者らしい名づけ方のままに、今もそれを跳ぶ(リープ)と呼んでいるのだが ー その跳ぶ(リープ)がやってきそうになるたびに、僕としてなんとか遠ざけようとし、そいつに自分を乗っ取られることを拒もうとしながら、しかし時には自分から、跳ぶ(リープ)の気配をむかえにでるようにして、奇妙な行動をおこなってしまうことがある。酒に酔っての愚行をふくめ、跳ぶ(リープ)は、程度の差こそあれ年に一度は僕を占拠して、もしかしたらその累積が、僕の生き方のコースを捩じ曲げてきたのかも知れぬほどだ。逆に、跳ぶ(リープ)が自分をつくったのだともいえぬわけではないかもしれぬが……
(「無垢の歌、経験の歌」)


(大江健三郎が常識的な視点から自分を卑下する方法でやる、諦めとないまぜになった自己の強い肯定には毎度共感と憧憬があって、ただ自分で頭ん中でそれを無意識にやろうとしていることに気づいたときにはたいがい結局自分の矮小さにガクリとなる、そもそも大江健三郎という人に、いま風に言うと中二病のきらいがあるということも否めないけど、むしろそのことによって中二病という言葉に、自分を省みて絶望させるに足る力はないのだ、あんな言葉によって捉えられる本質などというものはない、その程度の言葉なのだと励まし?のようなもの?を得ることも、ないではないけど)
ここでいう跳ぶ(リープ)に限らず、跳ぶ(リープ)を相似形の端的な一例とした、大江健三郎が多くの内向的な人を助けている結果になる形のうちのひとつに、「ひとと違う、マジョリティの常識とされているものから自分が外れているということは、一概に悪いとは言えない」というのがあるように思うのだけど(こうして書くとほんとにバカみたいだ、そして本家の場合は他人のするようにできない自分自身にしんから恥じ入っているというのも本当、というのも忘れてはならない大切な要素)、一度は助けられたその時の温かな衝撃に慣性のままに依存していた、その形の言葉の力からついに解放されて、その助けを借りずに自分の肝の力だけで自分を正当化する、少なくとも自分は存在してしていていいのだと思う、それはなおかつ自分の知る最大限に広く捉えた社会というものを同じ視界に収めたままに、ということは、やはり大変なことだと思う。そのためにまず必要な条件として、その葛藤を忘れさせてくれるような日常的な忙しさがあってはならない、というのが特に難しい。そもそもが、暇人にとってしか囚われ得ない精神論の中での話だというのもあるかもしれないけれども、例えばある程度のせわしさでは頭をカラッポにできないデキのイイ人々にも、その難しさは襲いかかる。
「難しいこと」と「不可能なこと」は違う、とはいえ、受験勉強も就職活動もしなかったおれのようなやつにはその二つの見分けがつかないのね。がんばってはいるけども。



本音とは何を指すのか?ケースバイケースだという正解をひとまず置いておいて、文脈の上での話をする、といっても定義の座標付けをするわけではなく、むしろ結局のところケースバイケースだよ〜んという結論を用意した上での寄り道というか、無駄話に終わるかもしれない。
今回は、本音とは自分にとって大切なもの、と言い換えたい。自分にとって大切なものの優先順位の秩序を守るべくある意思、その優先順位を決定する無意識と意識から、その優先順位に従って行動する中で生まれる摩擦に反応する無意識と意識までをひっくるめて、自分にとって大切なもの、と表現してみるとする。
無意識と意識の両方、というのが重要と思っていて、要するに本音とそうでないもの、をわけることは不可能に近い、という方向に話が向かっていくので