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2/9〜2/15・不謹慎とのたまうな/すべからく終わりがくるということは美しいものなのじゃないか、いい悪いは別として/せめて、新人らしく

壊れる ということはな よいことなのだよ博雅
終わる ということはよいことなのだ
炎をくぐって 新しく生まれかわるのさ

岡野玲子さんの「陰陽師」の一番好きな話、九巻“内裏 炎上ス”から、ラストシーンのセリフ。漫画からセリフだけ抜き出すのを引用と言っていいものか迷うけど。




今週の東京は大雪に始まり、間けっこう寒く、また週末に大雪が降ったという天気。雪国育ちの意地みたいなものは働く。
大雪や大雨が降るとよく起こる不謹慎談義、大雪たのしーって言うと被害に遭ってる人がいるからどうのこうのってやつ、あれな、おれはバカげた話だと思うよ。キリないぜ、ほんとに。大雪楽しいと口にすることと、どこかで被害に遭っているひとを思いやる気持ちを持つことは、矛盾しないとは言い切れなくとも、同時になしうると思うんだ。
同じ国の別の場所で起こったことを、目の前に降っている楽しい雪と、どこかで誰かを困らせる雪とは、別の雪だと言っていいと思うんだよな。そこを同じにしちゃったら、それこそ新宿駅西口で毎日叫んでる“アフリカの恵まれないこどもたち”のことについて、真剣に考えざるを得ないということに繋がっていくだろ。それを真剣に考えるなとはゆめゆめ言わないよ、しかし、何ができるか、おれらに。募金をしないよりする方がいいだろう、それはそうだ。しかし同じ国の別の場所で誰かを苦しませている、殺したりもしているそれと同一視して、目の前では誰も悲しませていない楽しい積雪を楽しいと口にすることが罪ならば、いま飢餓で死なんとしている子供たちのことを思って、おれらはすべての食事を楽しむことを禁じなければいけないのじゃないか?実際にその祈りを実行している人もあるだろう。その人たちの考え方を否定する気は当然、毛頭ない。ないけれども、個人的にはおれは、目の前で一緒にする食事を楽しいと言ってくれる人の気持ちに共感したい。
例えば実際に屋根から雪が落ちてきて生き埋めになって亡くなったという人の家族が目の前にいたら、そのときおれがどういうかはわからん。でもおれはそういう状況のときに、というのは亡くなった人の家族が身近にいた時にということだけど、悼みいればいいのだと思うよ。その時と、今この時は、区別しなくては生きてゆかれないと思う。
不謹慎だと言う非難の声を、同じ国の別の場所で起こっていることを、目の前で起きていることと同じように捉えることのできる人たちの意見だと、それはとても優しい尊い意見だと、考えるべきなのだとは思う。しかしさ、例えば同じ電車の同じ車両に乗り合わせたというくらいの規模でだに、その見知らぬ人たちすべての、どころかそのうちのひとりだけに関してすらも、いまどんな苦しい思いをしているのか、もしくはしてないのか、知ることは難しいのにさ。ツイッターで目に飛び込んでくる情報のなかで想像されるなにかの被害者の人に同情を寄せる気持ちを、それは思いやりではないとは決して言わないけれどもさ。すべてを知り得ないのに、ひとりに同情することは、ほかのひとりに同情しないことをより強調させはしないかな、とおれはよく不安になるよ。
こんなに長々と書きたいことなわけではないんだけどな、正確さを期すというのはむつかしいもんで、こういうとこほんとに小心者だと思うんだけど、自分で。
震災関連死(避難先などで亡くなった人たち)が3000人に迫るというニュースに、吐き気を覚えるほど、どうしたらいいかわからないような気持ちになる。しかし2011年のおれがそうだったように、いま自分に安全なあたたかい家があることを呪おうとすることは、少なくとも建設的でないし、美しくすらない、と思うようになった(その気持ちの変化が、ただ時間の経過によるものだという疑惑が未だ取り払えていない、それはもう苦しいものだけど、少し違う話なのでまた)。ただ自分の無力を思い知るという以上のことは今のおれにはできそうもない。まだ。いつか書いたけど、だからおれは金持ちになりたい。何よりむかつくのは、すべてを救うことはできないからひとりを気遣うことすら諦める、という風にも映る自分の姿勢だけれども。

まだメンバーにもなにも相談してないけれども、3月のワンマンと京都が終わったらしばらくバンド編成でのライブも入ってないことだし、そのあとまた少し色々と試しつつ形を変えていこうかなと思っています。一年と少しほぼ変わらない形で続けてきた、岸田さん、金川、西田、リツコさん、熊谷とのバンドは間違いなく今まで数多あるバンドの中で最高のもんだったけど、おれ自身のライブでやりたいことがまた変わってきた。
次、どうなるかはまだよくわからんけど。

それと、こちらは去年の12月からだから二ヶ月しか続かなかったということになるけど(あれ?マジか)、ブログで毎日の記事を残す形もひとまず止めてみようかなと。週刊という形はざっくり残しつつ、書きたいときに書く、というスタイルにまた戻そうかなと考えてます。いや、これもどうなるかわからん。今週やらなかっただけで、来週からしれっと再開しているということもあるかも。じゃあこの段落意味ねえな、なんだよこれ

人それぞれ多かれ少なかれ理想の生き方を目指す気持ちというのがあって、いつか引用したこれ http://d.hatena.ne.jp/hrkysmr/20130930/p1 があったり、特に人と関わる(ひとはひとりで沈黙していれば簡単に賢者になれる、口を開かないで悟りを開いたと自覚することは無自覚の極みだ、そういう人生を否定はしないけれど、というのはむかしからよく考えていること)とノイズというのはどうしても出てくる。自分の理想の方向性から大きくそれた人の意見や言動や、つまりは“嫌いだと思うこと”はもちろんのこと、ときには優しさからよってきたる優しい言動も、ある人にとってはノイズになりうる。何かをノイジーだ、と感じることは恐らく(聖人でない限り)避けがたい。ただそれをノイジーなノイズと切り捨てるか、ノイジーな栄養と捉えるか、というところにはまだ選択の自由が、いかなる場合でも常に完全に担保されているはず。と思う。そしてその上で敢えて他人の言動を完全に無視することが必要な場面もあるんだろう、が、それはおれには非常に難しい。人に言われたこと、特にネガティブなことこそこれは本当のことだと強く意識して、迷い、迷いしながら生きてきたし、この先その生き方を変えたいと思ったとして、変えていけるのか甚だ疑問だ。自分の意志の弱さには自信がある。
ムジカでのインタビューでたどたどしく話している内容と重なることでもあるのだけど、やはり、ミュージシャンというのは白いものでも黒だと言い張り、迷いなくダダを押し通すことがむしろ求められる仕事なのだろうと思う。しかしそれをおれはやれる気がしない。ならせめてもう少し新人らしく、迷いを含む色々な思いを隠さず口に出して行くことが必要なのか、と最近思う。

声の大きな人が残した耳鳴りだけが静かに残ってる

四つ年上の大野さんがこの曲を作った年齢におれはもうすぐなる(もしかするともうなってる)けれど、それでもおれは新人だと言い張りながらがむしゃらになってやっていくということも、必要なのだろうなあと思ったよ、という話。こないだけんじとやったユーストで話したように、永遠の小物としてはさ。