読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

眠気の真ん中で

ご無沙汰してます。

おれは今、ただひたすら眠気に耐え、座っている、ときどき立ったりするけどまた座る、眠気に耐えながら、ただ時間の過ぎるのを待つ、ということをしてます。仕事で。そういう仕事なんです。
ほんとに、眠気に耐えるというのは、ただ眠気に耐えると言葉にするだけではまるで伝わらない痛苦がありますよね。いまほぼ意識がない状態で書いてると思ってくださって結構です。いまね、僕ほぼ意識がない状態でなう。

あまりに暇なのでブログでも、と思ったんですが特に書きたいこともなく、久しぶりなのに書くことないのかあーと思ってます、あんなに毎日書いてたのに。いま久しぶりなのに書くことねえなあと思っているという事実が、そもそもあんとき毎日書きたいことがあってやってたわけじゃなかったという証明になっちゃってます。その通り確かにけっこう無理やり毎日書いてた節もあるにはある、否定できないのですが、毎日書くことを自分に義務付けある程度その通りにこなしながら、それでもやはりそこに何かしらの意義や達成すべき目標を探していたとも、言い張りたい気持ちがあるのです。けして毎日書くということ自体が目的なのじゃなく、それはただ手段であって、自分の思考を、他人が読んで意味の通る文章に置き換える、という作業を日常的に継続的にすることで、20代中盤の脳みその急激なそれはもう驚くほどに急激な機能劣化に歯止めをかけられるのじゃないか、という淡い期待へのトライで、たとえばつまりそれはあったのだと思ってます。
それから、思索の記録ではなく、日記というのは、思索を記録するものとしての機能を、ある意味では思索の記録以上に、果たしてくれるんじゃないかという、淡い期待へのトライでもありました。たとえば。他にも色々あった気がするよ。たしか。忘れたけれども。大概淡い何かへの何かだった気がするよ。
とか書いてると日記再開するのかと思わせる流れなんだけどその気は無いです、書きたくなったら書きますね。何かたとえば見えない明日へのトライとかそういうのじゃなく。そういうのはもういいから。もうなに言ってんだか、よくわからんですが。


坂口安吾さんが堕落論の中で哲学とか何言ってんだバカかみたいなことを言ってて、あと思索なんてのはプロの役割でもなんでもなく、それをやんねえやつなんていねえだろバカかいたとしたらそいつがバカだみたいなことを言ってて、それを読んだときには我が意を得たりと膝を打ちもしたのですが(たしかブログでも引用したはず、引用いれときゃなんかそれっぽくなんだろ的な。どれっぽさを目指してんだろうねおれは)、いま見事に何も考えず、眠気に耐える仕事をし、それ以外の時間は寝るだけの完全に眠気を中心とした、もう眠気の中心で眠いよと叫ぶ的な、眠気の中心で寝るよ的な生活をしながら、しかし自家中毒の知恵熱で毎日のようにうなされていた時期よりも遥かに開けた視界を実感しているのでもあります。明鏡止水の意味をこの手に掴み取らんとしているのかもしれません。そしてこれは確信があるわけではないのですが、あっても当然謙虚に嘘を付くわけですが、堕落先生の論じた、もしくは論じるのも恥ずかしいことだがと吐き捨てた、しかし切実に表明したいとしたところを、まだ振り返るほどの長さではないにせよ今までの人生の、どの時点にあってしたよりも近くに感じることができている、眠気のおかげで、フワフワしている、眠い。