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1/25〜1/31・毎日散歩一時間を課したら腹割れた


今週は一日も当日に日記をつけなかったので一週間の記録として、でもほぼ引用のみ


・まずは、『弾き語り141025』の通販始めました。いっこ前の記事を見てください。ご注文おまちしてます。


・マネージャーから俳優の仕事をもらう夢を見た。浅野忠信とおつかれーって言い合った。(俳優はわからないけどおれにできることなら仕事はたくさん欲しいです)


高橋源一郎さんのツイート。1月29日。

今日は月に一度の朝日新聞論壇時評の日でした。今回は、イスラム過激派による日本人人質問題と、フランスでの「シャルリー・エブド」襲撃事件について書きました。この二つの問題にはいくつもの共通するところがあるように思ったのです。

日本人人質問題についていくつもの意見が生まれました。政府の政策の失敗を咎めるもの、あるいは人質の自己責任を問うもの…。わたしは、自分の「意見」を書く気にはなれませんでした。最初に見たふたりの人質の映像が目に焼きついて離れなかったからです(その次の残酷な映像はみませんでした)。

オレンジの囚人服を着てひざまずき、ナイフを持って自分たちの死について語る覆面姿の男の横で、ふたりは何を考えていたのだろうか、と思ったのです。その映像から目を離し、すぐになにか「意見」を言う気にはなれませんでした。そのまま、そこで、ずっと考えていたいと思ったのでした。

スーザン・ソンタグは、誰よりも鋭い意見の持ち主として知られていますが、それでも、こう書かざるを得ませんでした。「意見というものの困った点は、私たちはそれに固着しがちだという点である。……何ごとであれ、そこにはつねに、それ以上のことがある。どんな出来事でも、ほかにも出来事がある」

「そこにはつねに、それ以上のことがある」。この事件だけではなく、なにかが起こるたびに、わたしは、このことばを思い出しました。結局は、なにかを言わねばならないとしても、前のめりに、自分が正しいと思うからというだけで発言することの恐ろしさを、いつも胸の奥に抱えていたいと思ったのです。

襲撃事件の後、フランスを代表する知識人、エマニュエル・トッドのインタビュー記事が読売新聞に掲載されました。トッドはこう言っています。「私も言論の自由が民主主義の柱だと思う。だが、ムハンマドやイエスを愚弄し続ける「シャルリー・エブド」のあり方は、不信の時代では有効ではないと思う」

「移民の若者がかろうじて手に入れたささやかなものに唾を吐きかける行為だ。だがフランスは今「私はシャルリーだ」と名乗り、犠牲者たちと共にある。わたしは、感情に流されて、理性を失いたくない」

「今フランスで発言すれば「テロリストにくみする」と受けとめられ、袋だたきに遭うだろう。だからフランスでは取材に応じていない。独りぼっちの気分だ」「9・11」の後、熱狂的な愛国の渦とアメリカの攻撃的政策に反対した人たちと同じように、トッドも「独りぼっち」になったのです。

そんな中、フランスに長く住んでいた、偉大なアメリカ人(風刺)漫画家、ロバート・クラムがアメリカの新聞の取材に応じました(このことについては、少し前にツイートしました)。彼もまた、フランスが、「9・11」のアメリカと同じ危険な熱狂に入りこんでいると指摘しています。

けれど、あえて「火中の栗」を拾うように、クラムは「ムハンマドの尻)という(風刺)漫画を描きました。気弱そうな、クラム本人が(ムハンマドという彼の友人の)尻を描いた漫画を掲げたものです。そこで風刺されているのは、「シャルリー・エブド」がやったような、宗教的権威ではありませんでした。

風刺や表現の自由は、弱者が、国家や宗教といった「公」の正義を名乗る強者と戦うために編み出した(産み出した)ものでした。だとするなら、各国の首脳が連帯して守ろうとする風刺や表現の自由とは何でしょうか。風刺や表現の自由が、正義の言論になったとき、その生命は終わるのかもしれません。

クラムが描いた「ムハマンドの尻」は弱々しい。原理主義の熱狂からも、愛国の熱狂からも、表現の自由への熱狂からも離れて、クラムの画は「独りぼっち」でたたずんでいる様に見えました。それは、風刺や表現の自由が生まれたばかりの頃の様子にも見えたのです。以上です。読んでいただければ幸いです。

・それから、瀧波ユカリさんのツイート。

ある人に共感できたつもりでいると、途中で理解が難しい要素が出てきた時に裏切られたような気持ちに一瞬なったりするんだから、そもそも共感できたつもりにならないほうがいいと思ってるし、世間が誰かを持ち上げて落として叩く現象ってたいていそういうことなんじゃないかな

いや、自分はアイアムケンジでもないしアイアムハルナでもないよ

想像はできるけど、そう簡単に共感なんてできない

共感できなくてもその人のことをいとおしく思うことはできるよ

他人の言ってることにまるまる同調して「正論だ!」ってハンコ押すのは単なる思考停止よ…半年とか1年くらいかけてゆっくり自分の頭で考えればいいじゃない

最後のツイートは自分のブログを引用だけで済ませようとしたおれに向けて、、



2011年の地震のとき、直後はつぎからつぎからいろんな意見が出て、何%かの人が(集団の中の8%が言ってることを人は「みんながそう言ってる」と表現するようになるそうな。高校のとき先生が言ってたわ)ウワッとそれに同調して日替わりで揃ったことを言ってて、おれ自身揺すぶられながらも問題はそこじゃなくて、ここでしょ、なんで誰もそのこと言わないんだ、とただ無意味に孤独になっていったのだけど、そしてその気分のダメージは今まだ抜けきったと言えないほどなのだけど、それ以降ネットで共感(この場合は共感という言葉を使っていいと思う)できる内容を声に出している人を普段から無意識に探すようになっていて、そのおかげか今回はその手のダメージはやりすごすことができているように思う。ただまあ、そういうことやってると自分がどんどん小さくなっていくような気はする。




しかしさ、海の向こうでは人が何千何万と死んでいるんだぜ。自国民の被害を特別視しない立場からの主張に対する非難に正当性がもしあるとして、それを言うにはずいぶん考え抜く必要があるんじゃないかね?それと、たとえ同じものを指すことになっても、愛国心という言葉はできれば使いたくはないんだよ。