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6/21〜6/27・政治っぽい話はなんとなく避ける、という感覚をおれはできれば肯定したい

ひたすら詞を書き、曲に乗せ、デモを録っている。相当重かった腰、ただ怠けていたわけじゃないと言い張りたいけど、モードに入ってしまえば出てくる。心底嬉しい。
今回久々に割と長い。




6/21日
今たぶんいちばん家が近い友達であるところのいのさんと晩飯を食い、いのさんちに遊びに行かせてもらった。いのさんは金色という仙台のバンドのドラマーとして出会って、おれを仙台に最初に呼んでくれた人である。今は東京でロボットを作っている。
いのさんはインターフェイス失くしたと言ってMacBookについているマイクでエレキギターの生音を録音して歪ませていた。ハウっていた。
冬に足を骨折したらしく松葉杖でライブをしている映像も見せてもらった。



6/22月
話題の絶歌を読んだ。いろんな人がいろんなことをこの本について言ってておもしろい。激昂する人がいるのは、あなた関係ないだろうと微かに思いつつも遺族の方にとってはもしかしたら少しは救われる気持ちのすることなのかもしれない。逆に肯定的なコメントをわざわざ出すのも無駄な勇気と感じる。いろんな立場があるんだろうな、、
本の内容については、この人が書いている感じがしなかったのでなんとも言えんなと思った。
どうせ返答はないにしても遺族の方に許可を取ろうともしなかったというのが本当ならそれはさすがに編集者の悪意を感じるけれども、まだ一億以上残っているらしい賠償金については本を出して売るでもしない限り払えないだろうし、どちらを取るかという話として見ることはまあ、ギリギリできるんじゃないでしょうか。
しかし遺族の方からすると賠償金は払って欲しいのではなく、実際的に生涯どうにもできない枷をつけて生きていって欲しいという気持ちなのかもしれないと考えると、やっぱりこんな本出されて、しかも能わずの壁を越えられてしまう最低の出来事なのか。わからないけど。

そういえばおれは小さいころ、テレビに出てくる遺族というのがなんだか理解できなかった。事故や殺人によって子供を失くした人達がカメラに向かって泣いたり怒ったり叫んだりしているのを見て、なんでこの人達は静かに悲しまないのだろうと不思議だった。
今はともかく、子を持つ親の気持ち、ましてや子を失くした、それも他人に責任のある理由で、となるとどれだけ頑張ってもおれには想像つかない、わかったつもりになるのは絶対によそう、と思っている。そもそも他人の気持ちなんて絶対にわからない。理解する努力はしても、そのために自分が努力をしたという意識を持ってしまったらもうアカンと思っている。自然にできるっぽい人もいるけど、おれはやはり性根悪いんだろうな、、
できることは自分の正しいと思う仕方で優しさを精一杯振るうことだけで、当然それもなかなかむつかしい。さらに、おれの思う優しさが相手にとって優しさと感じることはどうやら少ないらしい。おれは本当にバカなのかもしれない。
いつだかこのブログのコメントに、人にわからせるつもりのない自己陶酔、ポーズだと書いた匿名の方は、今でもここを読んでくれることがあるんだろうか?どちらかというとギリギリで感謝の気持ちの方が大きいということを伝えたい。

精神の不調にやたらと病名を付けたがるというのは、これもおれは最近まですごく嫌で、そんなん病気って言ってたら健康な人なんてほんの数パーセントも残らんのと違うか、と常々思っていた。製薬会社が稼ぐためとか、なんとなく不安のある人たちから責任を病気の方に受け持たせて安心させるためとか、もちろん病名を細かくつけて治療をシステマティックに進歩させていくとか、色々あるんだろうなと考えてるうちに、いつもわからん、知るか、となる。
いつだか知り合いの専門家に大昔はどうしてたのかと聞いたら、自然とみんなで疎外したり隔離したりしてたんじゃない?と言ってた。それもまあ、うーん。なるほど。うーん。と思った。
ただ生きていくってことがほんと大変だよなと思う。器用になりたいかと言われると別に、と思うけど、元々器用だったらよかったとは思う。もちろん飄々と見せて苦労してない人もいないだろうが。
(更新ボタン押すタイミングで読み返してなぜこの段落を書いたのか覚えてない、、いらなくね?このあと続けるつもりだったのかな)




6/23火
自販機に行った帰りに出くわした近所の小学生が今日は忘れちゃいけない日なんだよと教えてくれた。学校で聞いてきたらしい。どんな風に聞いてきたのかは怖くて聞けなかったけど、確かに子供らを見てると教え方次第でどうとでも受け取るよなあと納得させられる。

自分の感じ方の出どころについてずっと考えていたのだけど、憲法は考えるまでもなく絶対、ということだっておれはそう教えられたから信じているわけで。今から精一杯考えても完全に中庸な客観的な視点は持ち得ないと思うから、神経質と言われようが戦争は極力遠ざけるべきと教えられた世代として、自分がいま正しいと思う在り方をし続けるしかない。

70年前に日本人は力を合わせて勇ましく戦いました、負けてしまいましたがあの戦争は間違っていませんでした、そしてGHQ占領憲法を押し付けて行きました、と子供に教えるような時代が来るはずがないとは思ってるけど、いつだか「黒い雨」を読んだ時にも書いたように、戦前の日本が今とまるっきり違う世界だったというわけではないのだと思うんだ。今のおれやあなた方と同じ五感を持った人たちが(五感のない方もいるね、便宜上というかまあ、見逃して)、多かったか少なかったかわからないけど何割かの人は疑問も持ちながら、それでも大きな流れに絡め取られて抗えず国家総動員に従ったと言えるのじゃないかと思う。



歌の中に政治的な匂いがすると割と興醒めするけど、それも平和な国を生きさせてもらってることの表れなんだろうなあ。おれはできればこのままでいたい。ノンポリは死ねと言われようが、おれはこのままでいたかったけど、このままでいることを壊そうとしている何者かがあったら戦わなくちゃいけないんだろうか?それも嫌なんだけどな、、
このままでいることを壊そうとしているというのが諸外国なのか現政権なのか、という二択についてすら本当は考えたくない。

政治の話をなんとなく避ける、という感覚は、おれは肯定したい。平和ボケと言われてしまえるほどに平和な時代(日本に限ったこととしても)を先人から無償でもらって四半世紀生きてきた人間として。怠惰や嘘が堪らなく愛おしいのと同じように、孤独を自分の中の最後の砦として残しておくように。
戦争が嫌なのと同じように論争も嫌だ、でいいと思うんだよな、本来は。争いがあるのと無いのとを対照と見る必要が無いはずだろう、前者が異常、後者が常態、でいいだろう。平和から見て、戦争を対等な対照とする必要が無いはずだ。

ところが、声を上げなきゃまずいことになる状況になっているとしたら、静かにこっそり意見表明ができる選挙投票という段階は確かに過ぎている、、

夜、小学校の先生を始めたばかりの友達に会いに行った。下戸二人居酒屋でコーラを飲みながら、久しぶりに話すことは尽きず、ただ楽しく、ほぼどうでもいいやという気分になってはいたけどいちおうきいてみたところによると、6/23が沖縄慰霊の日であるということ、それについていずれかの方向性を指定された教育勅語がおりてきているということは無いらしかった。そもそも子供の親との関係に慎重に慎重を重ねなきゃいけない現場で迂闊なことを言える空気もなさそうだった。
妄想たくましく偉そうに子供たちつまりは国の行く末みたいなものを心配し(人から見ればそれは、自分の理想から外れていくことを憂い)かけたおれは、夜にはどちらかというと目の前にいる政治にあまり興味のなさそうな親友の日々の忙しさの方を心配していた。

注目しているというよりは自然と活動が目に入ってくる話題のSEALDs、恥ずかしながら先々週くらいに初めてその存在を知ったのだけど、まずおれが連想して比較しようとしたのが、いつかYouTubeで見た三島由紀夫と東大生の討論の映像で、あれは格闘技の達人同士のゆったりとした試合を見ているような気持ちになったけど、こちらはなんだか使う言葉がぬるいかな?と感じていた。
ただ、できる限りわかりやすい言葉で、伝えることを目的にするというところから考えるとそれは当然のことで、自己陶酔からできる限り距離を置くという、本当に難しいことをやってのけていると言えるのかもしれない。#本当に止める というスローガンのハッシュタグはそこと結びついておれにとっては衝撃的なくらいの感動だった。




6/24(水)
吉田グループのレコ発に行きたいなと思いつつ、今週の作業成果を一度まとめる必要があったので、宅録とファイルの整理。今週はポコポコ曲ができてほんとに嬉しかった、、
だがまだまだ。仕上げたいモチーフがたくさんある。




6/27(土)
SEALDs主催の渋谷アピールがすごかったらしい。共産と維新のリーダーが並んで話して握手なんて。野党にしてみれば次の覇権争いの活動の一環だったとしても感動的じゃない?バイトが無ければ見物に行って結果動員数に数えられるぐらいのことはしたかった。
若者が立ち上がっているのにその活動の甘さをついて批判する学者、を批判する意見のツイートをオフィシャルアカウントでRTするのは美しくはないけど、本当に止めるという目的に向かうという意味では個人的にはアリだと思う。

今度の安保法案が悪なのか、という単純な問いに直すと、情けないけど正直おれにはよくわからない。徴兵制は取らなくとも困窮した若者が自ら志願するアメリカ軍の成り立ちの例には説得力があるけど、もしかしたら万が一、世界的に見て大きな力がある方につくことで抑止力が働くというほうが真実なのかもしれない。日本の反戦は、世界中で殺し合いをやってるなかで日本がそれに参加しさえしなければそれでいい、というスタンスに受け取ることもできるといえるのじゃないか。

安部批判の声が、安部は個人的怨恨の払拭のために躍起になっている、と言うのを見て、それもたびたびお互い様のとこはあるように見えるし、流れてくる情報を見るにつけどうも現政権はちょっとおかしいなと思わざるを得ないというのが自然なところだと思うのだけど、その情報ひとつひとつが誰かの個人的怨恨や固定観念から発されたものでないとどうやって判断できるか。そして難しいのは、個人的怨恨や固定観念を非難する権利が誰にあるのか?

必要最低限の歴史的知識を身につけるというのは、必要最低限がどこであるかが個人的見解に依ってしまう以上不可能であるとして、その努力は怠らないようにしたいと思いつつも、何よりも怠惰を愛するおれの場合は尽き詰めると、信頼したいと思う人の意見を聞きつつ、個人的信念と思考に依ったる直感に沿ってものを考えるしかない(これを言うの、すごく怖いな)。

諸々踏まえまして、おれはいま直感的に、少なくともいま急いで安保法案を通そうとすることは、またそこに尋常ならざる執念を見せる安部さん界隈は、なんだかヤバいんじゃないかと思うので、現状、本当に止めるというスローガンにのみ忠実である限りおれはSEALDsさんを断固応援したいと思っています。