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明るい孤独のはなし


だれにかんしても、その人の孤独というのか、恥ずかしくて人に見せられないきれいなところと、とても人に言えないくらい卑劣な部分のことだけは信頼してる。


そういうのがその人の内面の核だとかいうふうにはむしろ思わなくて、その人の孤独というのは必然他人といるときには自分自身含めて誰にも見えなくなるから、内側に、奥の方にあると表現したくなるのは実際としても、人間を内面と外面に分ける考え方がされるのは多くの場合便宜上のことで、たとえばそういう表現を見る度にウソだなあとかそれは違うとか、そういう風には別に思わない。便宜上といったのは、つまり人とイメージを共有してスムーズに話すためのことばづかいでそれはあって、その時点で意識は“外”を向いている。

ことば、表現、といったときだいたいそれは他人とコミュニケートするためのものという意味で使われる。じゃあ、かといって、全てのことばや表現が自分と他人の間を繋ぐためにあるのかというとそうではないと思う。自分だけに向けられた、またはどこにも向けられていない、自分以外のだれにも知られることのない、でも意味がないわけでは決してないことば、表現があると思う。人によるとは思うけど、むしろ他人に向けられた言葉よりも誰に聞かれることもなくひとりごちる(ひとりごととして口に出されるかどうかは関わりなく、たとえば思考や、言葉の形をとらないまま頭の中で広げられるイメージを含め)ことばの方をたくさん持っているという人も多いと思う。

それを内面といい、他人に向けられるものを外面と言い表すのはとてもわかりやすいし、その言い方が不自然だとは思わないけれども、それはあくまで対外的なコミュニケーションというものを俯瞰して図的にイメージしたときの、多くの人に共有されやすい形に直したあとの言い表し方だと思う。

自分だけに向けられたことばや頭の中で広げられるイメージが、それは内面に存在するものだ、というのは自明の前提では決してない、ということが言いたい。自分だけに向けられたことばやイメージを大事にすることが、なんだか暗いこと、慣用的な意味で言うところの内向的なもの、なんとなく後ろめたく恥ずかしいものという風に、それでは思えてしまう気がする。

でも一方で、その常識も仕方ないなという諦めを確信している。常識というのは変えがたいものだし、おれは常識といわれるあらゆるものに対してむしろ肯定的に思っていて、反抗して変えていきたいという気持ちはない。たくさんの人たちが時間をかけて作り上げてきた様式美みたいなもんだとすら思う。いや、それが美しいとは必ずしも思うわけではないか。ともかく、どうしょうもないもんだと思う。常識が変わっていくことがあるとすれば、それはたくさんの人たちが、大抵無意識的に、時間をかけて起こっていくことであって、それこそがおれは自然という言葉の意味そのものだと思う。当然、ある常識に対してこれは不自然だと思うことはある、でもそれはあくまで個人的な感覚であって、つまりこの場合の自然と不自然という言葉は対義語として正対はしていない、なんというか、次元の違う言葉。

話を元に戻す、、
孤独のことばと対外的な言葉、その2つは内面と外面というのではなく、かといってそれは並列に置かれるべきものだと主張したいわけでもない。(なんだかさっきからおれは何か言いたいわけではないということしか言ってない気がしてきたが、今日言いたかったことは一番うえの段落に集約されていて、つまりツイッターでもよかったんだけど)強いて言うならその2つは表と裏、しかもどちらが本来の表でどちらが本来の裏だということの言えない、どちらかが見えている時はもう片方が見えないだけの、あるいは紙のようなもので表裏一体、あるいは球体のようなもので表裏の境目はないけれども外側の一視点からは全体の半分以上を同時に見ることができない、けれども確実に同時に存在はしている、そんなようなもんだということになるか。まあ正直これはどうでもいい言葉遊び。

話を、、元に、、戻すから、、えー、、
常識としての内面、外面という言い表し方を否定するわけではなく、喜んでその前提に乗っかりつつ、その常識ってなんか悲しいよねという話がしたい。たぶんおれは常識というものの中によくある悲しいやつについて、なんか不自然だなと個人的に感じ、そして同じように感じる人を見つけるのが嬉しいのだと思う。常識というものをぜんぜん否定しないと言ったのは、なぜなら悲しい常識がないとそれにやっつけられることもなく、自分も含めて同じように感じる人を発見することもできなくなるから。なんだこれやっぱ暗いのか?

同じように感じる人を見つけるのが嬉しい、というと、マイノリティだという自意識があって、同じ傷を持つ人を見つけてその傷めがけて飛んでいってベロ出して自分の方でも傷を相手のベロに押し付けるようなそんなイメージをされるだろうけど、ここで最初の段落に戻ってもらうと、おれはつまり孤独のことばを共有できる人というのはとても多い、むしろだいたいみんな、同じとは言わないけどそんなに違わないんじゃないかと思っている。

性善説性悪説の両方を肯定してだからおれはどっちを支持する人も味方、どっちもおれの仲間、みたいな話になってきたけど、これはよく言われる日本人の清濁合わせ飲むという性質とかそういうことに落とし込まれるのか、しかし本音というか、これがおれの素直に感じるところなんである。そして上の段落で、共有できると書いたけれどもそれは必ずしも重要ではなく、違うな、と感じたとしても互いに攻撃し合うことがない、それが孤独の最大の長所だと思う。なぜなら攻撃ってのは対外的なものだから。自責や自虐や、自分に対して攻撃的なものを向けるということもあり得るというかすげえよくあるが、それはちょっとこの文脈で話すとややこしそうだからひとまず置いとく。一つだけ言うなら自責や自虐は自分が思う美しさを遂行するためにあって欲しいと思う。

ただ面白いのは、よーく見ててもどこまでもニュートラルで表裏のない、隙のない人というのもいる。おれの眼力がまだまだ未熟だというところでもあるのだろうけど、そういう人はたいていカッコよくて憧れる。しかし自分自身がそうなりたいわけじゃない、この気持ちが憧れという言葉と矛盾しないのはおれの強靭な諦観の裏付けになってしまうのかもしれないけれど、おれはおれがまだ口に出せないような恥ずかしい部分をたくさん持ってるし、それをなくしたいわけでは決してない、ただ表現者として、孤独のことばを他人に向って口に出していく、その練度を上げていく努力はしたいなと、思っている。

これが五月に書いた惨めったらしいブログの中の、これまであったかもしれない妥協を排した表現、それを目指すということの説明になると思います。

おれの孤独のことばが、あなたの孤独を肯定して孤独のままにネガティブなものではないと思われ、あなたによって大事にされていくための微かな一助になれたらと、願うというより、そのための力を持てるよう努力します。でもその努力ってほとんど願いとか祈りとか、そういうものに他ならないとも思う。