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言葉はぜんぶ何かの略

何に似ているかというなら、おれはキンモクセイの匂いはトイレの芳香剤よりは小さい頃に使ったアラビックヤマト(のり)の匂いにまだ近いと思う。
視覚における視力色盲などはわかりやすいけど、五感すべてに恐らく人それぞれ感覚器官の個性に依る部分が多くあるんだろう、それを他人と正確に比べることはできないという事実には確かに少し食らいつつ、あらゆる表現方法の中で五感について最もバランスよく情報を共有させうるのは文章、言葉なのじゃないかと思い至り、考えてみるととにかく文章や言葉ってのはとても大事なもんなんじゃないかと。あらゆる場面で。あらゆるスケールで。

おれ個人のことでいうなら文章好きだけど、そういうんじゃなくもっと一般的な話として、思考やコミュニケーションについて言葉と文章に依存する人が多いほど平和になるんじゃないか。たとえば、その状態の極まったもののひとつが宗教、信仰だとして、おれ自身はなんかを信仰したこともこの先するつもりもないけど基本的に宗教の多くは平和を実現するためのものと捉えてるし、信仰の強さからやってる殺し合いのことを差し引いても信仰のあるおかげで成されている平穏の量は圧倒的に大きいんじゃないか。
言葉はぜんぶ何かの略にすぎないと思うけど、その前提を共有することさえできれば歩み寄りを生む、相手のことを理解するというのはほんの一部分でも相当にむつかしいことだ、骨の折れることだ、という認識の重要さを、言葉への依存が教えてくれるのじゃないか。

キンモクセイの匂いが好きなのは、キンモクセイが匂う時期の気候の良さの貢献するところが大きいと思う。場所によるだろうけどすくなくとも東京の秋はとんでもなくいい。時間がえらくゆっくり流れているような不思議な感覚があるのに、残り時間の減っていくことを強く感じて苦しいくらい焦る気持ちになったりする。過ぎた時間の、なくなったものが恋しくなる感じもある。こういう感覚は詩的な気分に任せて「そういうもんだ」と強く認めることもできるし、逆にそのときすっ飛ばした説明の部分にこだわって考えてみると理由がよくわからず不思議で、その不思議さもまたよかったりする。言葉は記号で、それはぜんぶ何かの略にすぎんなあと思う場面だ。

まあ花粉症のひどい時期でもある。たまに鼻が通った瞬間に香るのがキンモクセイの匂いだということもあるのかもせん。ともかく秋はいい、という話。




次のライブはもうリクエストソロワンマン秋編。春夏は二日間ずつやってきたけど今度は一日きり。
まだ席あります(リクエストはできれば今月中くらいで)。気持ちのいい季節には歌う方より聞く方が好きだけど、それはお客様にお譲りします。