じいさんたちありがとう

長年だましだまし使ってきたiPod classicがカンペキに壊れたので、容量の小さいiPhone(音はだいぶいい)に特に聞くものだけ入れて聞いてる。なんかやったことあるなこれと思ったら、CDプレイヤーを持ち歩くときの感じ。めんどくさくなってあんまり最近CDは持ち出さない。
一音一音覚え切ってるポールサイモンのベスト盤を繰り返し聴いてて、最近何やってんだろとふと思って検索したら、じいちゃんまだまだ元気だった。


本当に最高!

そんで流し読んだ
mikiki.tokyo.jp
微分音階てきくとこれまでなんかムカついてたけどポールサイモンの音楽に照らし合わせると急に腑に落ちた感じ。



大岡信さんが亡くなられたということで折々のうたの第二集を、部屋をひっくり返して探し出した。ブックオフで買ってたけど読んでなかったやつ。
180字(ツイッターに近いね!)のコラムをまとめたものだから続けて読むの疲れるんだけど、めちゃめちゃおもしろい。学生時代に聞いたきり忘れてた古語(むつかしいのはきちんと説明もしてくれてる)がたくさん出てきて、かすかな苦みを懐かしみながら読んでる。あとがきに感動したので一部引用。

 このコラムの場合、書き溜めることができなかったのには、もう一つの、もっと重要な理由があった。私は季節のめぐりにある程度合わせて作品を選ぶ方針のもとにこれを書いてきたが、そういう方針をたててみると、その季節になってみなければ当季の歌や句についてぴったり来る言葉が湧きあがってこないことがしばしばあったのである。
(中略)
 新聞コラムの文章は百八十字という短文だから、ぴたっと来る一語が得られるか得られないかで、出来不出来に雲泥の差が生じる。その一語は、結局のところ辞書からも歳時記からも簡単に得られるものではない。ある季節の中で自分が感じとるある実感、それが私の中に茫洋とうごめいている言葉の群れの中から、ある一語を突如として明かるみに引き出す。私はその言葉と、その時はじめて出会う。そういう出会いがないと、百八十字の短文は書きようがなかった。一語の背後に同時に数十語が感じられるような、そういう一語に出会えるかどうかが、この種の文章の唯一といってもいい要点だと思われた。
 それが私の文章で実現できているなどとはもちろん思わない。心構えとして常にそう思っていたということである。したがって、新聞記者のいわゆる「予定稿」を作ることは、「折々のうた」の場合、少なくとも私には不可能だった。ある季節のものは、その時節にわが身を置いていないと書けなかったし、書く気もなかった。そのためいつも緊張していただろうと思う。それで病気もしなかったのかもしれない。
 もともと、いつも自分をせっぱつまった状態に置くという感覚は、私にとっては文章修業の大切な要件であるように思われ、ぎりぎりのところで閃く言葉にこそ生命の輝きが宿るという信仰のごときものもあるので、これ以外のやり方は本当はできないにちがいなかった。
 知識というものを、奥深いところではあまり頼りにしていないのである。かといって無知を標榜するつもりもない。どちらもそれだけでは詩の問題を覆うに足りないというだけのことである。

生前世に出ていてなかった人の作品を亡くなった後に褒めそやすのは悲しいけど、既に名声のあった人の文章ならカラッとした気分で対面できて良い。
ご冥福をお祈りします。素敵な作品を残してくれてありがとうございます。