なんとなくって感じ方を、根拠がないからと軽視してしまわないよう努める:保坂和志「考える練習」

久しぶりに一冊の本に強く勇気付けられたと感じる経験をしたのでそのことについて書きます。
といってもひと月前に読んで、内容はほとんど忘れている。細かい内容をほとんど忘れてしまった頃に残るのは、その本から自分が受けた印象、読んでいた時の気分、またそこから時間が経って自分の内で消化され得た成果ということができると思う。

河合隼雄さんが、いわゆる雑誌の夢占い的な興味にさらされた際の専門家の目線で -夢にどれそれが出てきたからこれは良い夢、あれこれが出てきたから悪い夢、ということではなく、夢から覚めて余韻の中にある自身がどう感じたか、ということが重要だと捉える- というようなことを書いていられたと記憶しているのだけれど、夢の「正確な記憶」よりも夢を見た「後に残った印象」のほうに重要なところがある、とする姿勢はおれのこの読書の成果についての考え方と同じ、というよりむしろおれの20歳ころに読んだ河合先生の本から受けた影響がほとんど直接に表れているようです。

もちろん、記憶が正確である(=当時の認識に近い)に越したことはないとしたうえで、しかし完全に精確な記憶など不可能だということも認めざるを得ず、とくに眠っている間に見た夢についての正確な記憶、というと絶対にあり得ないと言い切ってしまっていいかと思うのですが、もはや二十代ではない自分が読んだ本についての、ひと月後からの記憶の精度が、夢についてのそれとどれほど違うだろうか、ということもつい、考えては別の感慨にも耽る…


保坂和志「考える練習」

いかにも自己啓発本棚にありそうなタイトルですが、芥川賞作家のインタビュー本です。聞き手の方が、読みやすい本に完成させるべく恐らく敢えてバカのふりして基本的な質問ばかりしているおかげでとても読みやすいです。

この本を読みながら感じた爽快感、読後に自分自身の課題として前向きに捉えたくなったことの手触りや気分は、坂口安吾さんの「続堕落論」を読んだときのそれとよく似ていて、驚きつつ読みました。文章の内容や言葉の上での主張は正反対と言える部分もある。にもかかわらず読後感を近いものに感じたことがおもしろく、比較しつつ再読したいと思っているので、それについてはまたその気になれば別項で書くかもしれません。

今回は本の内容の正確な記憶ということからは意識して離れて書くのですが、特にいまの時点で強く印象に残っていること、またそこから連なるようにして自分で考える道筋を与えられたことのいくつかをそれぞれ一言にまとめるならば、まず「簡単に答えの出ないことは考えるのをやめない」ということがひとつ。これはなんかそんなようなことをちょうど本を読んでる最中に感動のあまりツイッターに書いたかと思う。
なんとなくこちらの方が良い、根拠はないけどあちらは悪いことだと思う、という美学的な、または道徳的な自分の感じ方を尊重して、その感覚の根拠を説明はできなくとも、まずは信じる。かつ、そのよってきたるところの正解不正解ということを疑うこともやめてはいけないのだけれど、そのためにもまずは、自分が感じたという事実の存在を意識する。メタ認知のひとつひとつをできる限りピンで留めておくように記憶、または記録する。
記憶する、記録するということの大事さを考えるたびに同時に思い出すこととして、大江健三郎さんの小説の中で、主人公がウィリアム=ブレイクの詩を引きながら進行していきつつ、ブレイクが"記憶力というのは人間の持つよくない要素のひとつ"というような意味のことを(引用としてはだいぶ精度が低い。ここの言い回しだけは原文を確認したくて、アタリをつけた短編をひとつ飛ばし読みしてつい泣きそうになってしまった。探している部分はすぐに見つからなかったので諦めた)言っていることに戸惑いを覚える場面があり、それがいつも頭に引っ掛かっているということを書き添えたい。
半ば無理やりに自分の感じかたに引き寄せて嚙み砕くならば、たとえばいま目の前の光景を見る、その瞬間に感じることを受け取るのに、記憶による情報が偏見のようにして入り込んで邪魔をすることがある、という言い方なら簡単に納得がいく。大江健三郎さんの作品の中に引用されているブレイクの原典は読んだことがないうえ、読んでみたとして論理的に"そういう意味だったのか"とすっきりするようなことはまずないだろうという予想はある…

そして次に、「(とくに表現をするうえで)完結させようとしない、という方法」。これはおれが表現をやっている人間だから、単に方法としてというか、物を作るやり方として"あ〜いいこと聞いたわ"と嬉しかった、という話だよと終わらせることもできるのだけれど。それでも、上の「考えることをやめない」という姿勢と重ねて捉えることで一層味わいの増す考え。終わりを決めない、というのはいろんな場面でとても気が楽になる考え方と実感しています。
AかBか、どちらがいいと思うか、と問われるまたは自分で判断しようとする場面は生活の中に多いと思いますが、それに対して「どっちでもねえよバカ。こうで、こうで、こうやってこうだ、知らんけど」という答えが大体の場合で一番正解だ、と迷わず思えるようになるというのは健康に非常に良い。それでも簡潔に答えなきゃいけない、ということが多いのが実生活ということもわかってんだけどね。
ここで先日のおれのポストにあった「誰でも賢者になれる ひとりなら」というニート川柳を再び取り上げ思い浮かべながら書きますが、自分の考えを深める、そんな高尚なもんじゃなく少しでもマシな人間になりたいと考えるとき、基本的にはまず一人で頭を絞るというのが個人的には好みのやり方です。本を読むにも音楽を聞くにも、おれはやらないけど映画を見たり絵を見たりするのにも、初めて出会う他人の表現にふれるそれ以前の期間に自分ひとりでどれだけ考えてきたか?ということが重要、というかそれがほとんど全てだと思います。

あとは、この本をおれに勧めてくれた王舟さんが言っていたことでもあるのですが、そしてこれはインタビュー本だからこそのことなのかもしれないけれど、保坂さんの言い回し、表現の仕方にとても刺激を受けました。断定的な言い方をしながら、その言葉の持つ複数の意味の可能性を殺さないように想像力が常に働いているという印象を受けました。そんな適当な言い方でいいの?あ、でも伝わってる、というような。

蛇足かと思いますが、以上はおれの中に特に強く残った感覚なので、当然同じ本を読んでも全く違うことを感じられる人もあると思います。おれがこの本を読むまでに考えてきたことや感じてきたことに強く呼応する内容ほど印象に残り、読後ひと月が経っておれの中に醸したことの話をしている。ほとんどもう勝手な解釈と言っていいようなことを、そしてその勝手な解釈こそが重要だ、という話をしたつもりです。
蛇足を重ねると、この本の内容の序盤3章ぶんほどが出版社のサイトでそのまま読めるようですが、このポストを読んでこの本を読んでみる気の起きた人にこそウェブへのアクセスはお勧めしないということを強く言いたいです。本は買って読むべき。おれは読むのが遅いからということでもありますが、高い本でないのであれば借りることもあまりお勧めしません。図書館で本を借りて読む習慣のある人にはどうか聞き流していただければ…読書筋肉の話もまたそのうち、別項でする気になれば。