道徳と戦うのは哲学者だけではないだじょ〜

3日に、かねてからメルマガでだけおしらせしていたソロワンマンをやりました。
とても良い時間だった。楽しかったというのとは少し違って、終わったあと自分自身に何かしこりのようなものが残ったという感じがします。こう書くとしこりというのは単純に良くない、悪い意味と取られるかもしれませんが、改めて考えてみると直回路でポジティブな気分だけが残るというのはほとんど何も残らないというのと同義ではないかとも思います。極端すぎる気もしますが、少なくとも自分の興味のある表現というのは、新しい視界が開けるきっかけになる違和感を、でもそれを少し手を伸ばせば届くような近い距離でじっくり眺めることのできるように置いてくれる、そういうものじゃなかったかと思います。しこりとしてきちんと認識でき、なおかつそこを切り口にカロリーを使って考えていくだけの価値のある道に繋がる違和感、その塩梅はなかなか難しく、けれど表現の出発点さえ間違っていなければ当然に表れるはずの、しこり。
蛇足とは思いつつ念のため、ペシミスティックであればいいというのではもちろんなく、むしろいわゆる「クラい」表現にはいま全くと言っていいほど興味がありません。蛇足を重ねますが(誤解されたくないので)おれが興味がない、という言い方をするとき対象を非難していることはありません。おれの興味の話。それに興味を持つ人がいることを非難するのは、森に木が生えてくるのに文句を言うようなもの。いろんな人がいるというのが自然、というのはまさにそういう意味。

以前にもどこかで言ったと思うけれど、芸術表現は基本的に道徳との戦いと思う。敵対ではなく競争のほうが近い。でも違う。
誰もが頭の中にうっすら記憶を残しているはずの、小学校の道徳の教科書に書いてあったようなことを再確認するだけのような表現が売れるのは、道徳の教科書を読む読解力すら持ち合わせない人が多すぎるということに他ならないと言えてしまう。その読解力というのには「理解ができる」だけではなく「それはわかったからもういい、とすることのできる態度」も含む。これはただの愚痴かもしれない。
観念的に呼ぶ「小学校の道徳の教科書」というのはおれはこの世の中で最も善いもの、微塵の皮肉も込めずに最も善いものののひとつとして置いていて、これを基本に全てを考え始めてもいいとさえ思う、それほどのものとして頭の中に常にある。仮想敵、仮想競合相手、仮想好敵手、なんでもいいのだけれど、この道徳の教科書に書いてあることは言うまでもないことで、真面目な顔して言ってしまうと表現者としてはいまさら恥ずかしいことだ、と思っている。
全く同じことを繰り返すけれど、敵対ではなく競争が近い、けれど違う。正しいけれど、当たり前だから同じことを言う必要はもうない。でも正しいから、発展する中でいつかそれに反してもいけない。そういうものとして、「小学校の道徳の教科書」という観念的なものを、あるいは二重の意味で不可侵の表現のエリアとして、頭の中に規定しています。
つまりおれが表現すべきは常に道徳の教科書の先にあり、それには載っていないこと、だと思っています。

最近大きな決心をして、まあ決心というのはえてして時間や環境によって整えられる準備の方が大きな要因になるものではあると思うのですがともかく、自分で作る音楽にもう少し責任を持とう、そうあることができるように必要なことは嫌がらずやろう、と考えています。
人生の成果としての表現をする、また同時にその表現が自分自身に新しい視座を示し移動を促してくれる、そんないい循環を作っていくために必要なものが何であるかを考えるということは、すなわちまさしく自分が生きていくうえで本当に大切なものはなんなのか、ということを考えることでもあります。
もちろん「僕の大切なものはこれとこれです」と具体的に取り上げられるようなものを見つけるというのではないので、ここにこうして書いていることも茫漠として読みがいのない文章になってしまうのだとは思うのですが。

敢えて、あくまで敢えて分けるならばおれがやっている音楽には要素が三つ、身体/音楽/思想、とあると思っています。それぞれが歌/演奏/歌詞に対応する(言い換えることができるというのとは違う)んですが、考えるために一度分けた三つの要素がまた絡み合い、それぞれの枝葉の要素の大元がどれだったか明瞭でなくなる。なくなるというよりは、常に明瞭ではない。
以前は三つの要素のうち思想の部分が全てで、いま他に分けている二つの部分に関しても思想に拠るもの、思想の反映でしかない、と信じていましたが、ことはそんなに単純ではない(そういう単純さをさして厨二病という。厨二病的というのはまた例えばラーメン二郎のアブラのような魅力の凝縮された感覚があるものだとは思います)。便宜上分けた三つの要素が絡み合い、足を引っ張り合い、互いにそれぞれ正しさを主張したり、ときたま異口同音を唱和して気持ち悪ささえ呼び起こす。三つに分けるというレイヤーがあればそれが二つであったり百であったりというレイヤーも当然あるはず。それならば三つに分ける必要そもそもないじゃんと感じることもあるかもしれない、でも「考える」というのはそういうことなのだと思います。考えることが手段であり、目的ではないということがはっきりしていればその疑問は生まれ得ない。いや、その疑問を持つことも辿るべき道筋のひとつではあるのか。
考えることは、あらゆる道筋を辿り着くすことであり、そのためのあらゆる手段は肯定される。考えるための手段として人を殺すことを想定することは例えば、当然正しい。実際に人を殺すことが犯罪になる、それはあってはならないことだとする常識とそれは矛盾しない。この文脈での道徳との戦い、という話もやれそうですがそれにはまた別項を割くべきかと思います。むしろ「哲学は道徳との戦い」というのはこちらに近そうな話でもありそうだし。

考えることが手段であり目的ではないと言いましたが、ではなんのための手段なのか、その場合の目的はなんなのかというと、その続きを考えることだとしか言えないのじゃないかとおれは思います。坂口安吾さんが、専門の哲学者なんてのはバカバカしい、人間みな考えることをしているのは当然なのであって、つまり哲学への志というべきものは人間であれば当然持つべきだというようなことを書いていたと思います。そこへいくとおれとしては半分同意、半分そんなわけねえだろ、という姿勢。堕落先生が人間みな、というのを現実に何十億の人間全てを指していると素直に受け取ることはさすがにしませんが(することもできるし、そこからまた居酒屋談義を展開させていくこともできるのでしょうが)、一瞬の間もネバネバと考えることをしないという態度で生きている人がいたとしたらその人のことをそれはそれで十割肯定したい、心から尊敬し讃えすらしたいという気持ちもまたあります。

「道徳との戦い」といういやにキャッチーなフレーズを振り回すのも客商売、言葉の世界でのブームは本当に一瞬で燃えて消えるものだからすぐに聞かなくなるのかもしれませんが、おれもまたこのフレーズに引き寄せられて書きたくなってしまいました。とまれ、テキ、もとい道徳との共闘者を知るべく哲学という学問に触れてみるいい機会なのじゃないかと思っています。専門家を名乗る人たちがどんなことを考えて表しているのか、そこに触れなければ自分の表現の続きの展開におもしろさはなくなるだろうなと考えています。





毎度、お客様に送っていただいたリクエストワンマンの曲目です。リクエスト曲に★を付けてみました。


170903

1.ワールウィンド/恋は瞬間
2.冬が来る
3.決壊
4.夜風に吹かれて
5.淋しいともだち
6.watarirouka★
7.朝の歌★
8.akegata(minamitetsu)★
9.東京(くるり)★
10.your lion
11.マリッジソング★
-休憩-
12.真夏の嵐★
13.水色の
14.新曲(タイトル未定)
15.natsu no hikari to kage★
16.甘い生活
17.うごく こころ★
18.はづきたち
19.井の頭
20.うまれてくる人たちへ★
21.狐の嫁入り
22.忘れていた
23.花咲く季節
24.the ballad
25.春のからっ風(泉谷しげる)
26.hiji
27.夏はゆく