インスタ映えって言葉ができてよかった

テレビを見ないので、ニュースなんかもまず知るのはツイッターのタイムラインからということが多い。それもおれがフォローしているのは斜に構えた文化人が多いので、話題になった出来事に対して素直ではない反応、ネタにするとか、揉め事を遠巻きに眺めて呆れているとか、だいたいそんなのが最初の情報としておれには入ってくる。事件があれば、おれの目に初めて触れるのはその事件に対するマジョリティの反応に対するマイノリティの反応に対しての個人的な感想、というような場合が多い。そうなるともはやそこからは出来事自体のことが全然よくわからないということもある。特に元の話がどんなものなのか気になったものについてはググって探すとかする。

「インスタ映え」という言葉については、それに執心する人たちがいるらしいという情報に対して、おれのタイムラインよりもっと広い範囲で批判的な見方をされている、というか批判的な見方のほうがもはや多く支持を得ているのじゃないかと思う。その証拠に、おれのタイムライン上では条件付きでのインスタ映え擁護とでもいうべき意見が登場してもいる。その擁護意見が天邪鬼というのではない、擁護する弁も必要になるほどに多くの石を投げられているのだろう、ということ。
大きな風潮として、ネット上で取り繕ったり、他人からどう見られるかということを気にし過ぎるのは良くないことだ、という方向の気分があるように感じる。これは「インスタ映え」という言葉ができた効果だと思う。この言葉ができて本当に良かったとおれは思う。人目を気にするのはよくないという風潮が好ましいという話ではない。

名前をつけるという行為はときに大罪になりうる。言葉(この場合は概念の呼称)というのはそれができた瞬間に近ければ近いほど濃密なものだと思う。その言葉ができるまではひとことで言い表すことができなかった多くの情報を含んだ概念が、初めて記号化される瞬間を頂点にあとは基本的にはまっすぐ右肩下がりで、その言葉の持つ内容は薄れていく。記号化というのはそういう効果がある。電子レンジを初めて作った人が繰り返した試行錯誤と、それに必要だった知識の全てを知る人が、いま日常的に電子レンジを使っている人数全体のうちにどれだけいるだろう?調理の行程の中で「レンチンする」と記号化されている調理方法を、電子レンジがない世界で他人に説明することを想像してみればわかりやすい。
例外はある。一部の専門家やなんかの間で耕されて膨らんでいく言葉もあるだろう。でもそれが多くの人の間で共有されることは稀なのじゃないかと思う。

インスタ映えという言葉に落とし込まれることになってしまった有象無象の感情やエピソードは、この呼称ができたことによって急速に色褪せている。本来は良い悪いではない、ニュートラルに自然にただそこにあったはずの、本当に多くの情報がインスタ映えという言葉にくくられ、それがたまたまお茶の間レベルで嘲笑の対象となってしまったことによる。一部の極端な映え信者がニュースで取り上げられ、貶められるような形で報道をされたことが大きな要因であると思う。これによって超大多数のライトな映え愛好家達が、自分の中にある虚栄心にこの盲信者達と近い方向性を微かにでも感じ、今度はその虚栄心が、自分を映え盲信者と同じだと周囲に見せてしまうことを嫌う方向に働いたということだと思う。いや、実際にインスタ映えという言葉が成り立ってからそれを指して非難する流れが生まれたのか、順番が逆なのかはわからないけれども、ずっと前から多くの閲覧者たちの中に像を結び切らぬままになんとなくあった不快感と、それを恐れる投稿者の中にあった不安の両方をうまくすくい上げる契機に、この言葉の誕生がなったことは確かだろうと思う。
多くの人たちのライトな虚栄心は愛すべき醜さであって、けっこう愛おしいとさえ思う。かわいげと言うこともできるかもしれないけれどそんなに偉そうな視点から語りたいということではなく、人の中に隠されているものをひとつ見つけて、あらゆる人は超多面的であるということの証左がまたひとつだけ増えたと感じられる、というような。

けれども愛おしさと拮抗する個人的な恨みがある。
おれの高校生の頃ブログブームがあり、十代の終わり頃からmixiの大流行があった。魔法のiらんど(表記あってる?)で同年代や年下の人らが日記を書いていた。異様な改行の多さに辟易しつつも、必要以上に赤裸々にトロされる後輩の心情に触れるスリルや、自分のプライドを刺激してくる友達の見栄っ張りに挑発され高揚する気分を味わった。時代全体(それでもそんなに遠くない状態だったとも思えるが)を語るつもりはなく、SNS黎明期とおれ自身(とその仲間)の一番恥ずかしい年頃が重なったという個人的な環境の上での話である。
なんだかみんなが困っているように、不遇なように見えた。本当はこんなはずじゃないとか、もう少しこうだったら良かったのに、とか、そんな主張を、面と向かっては言えないのに、いつでも会えるような人たちだけに向けて、書いていた。言えないけれど書けたから書いてしまっていたのだろう。ネットで不特定多数に向けて発信している形を取った遠回しな(それでいて内容は時にむちゃくちゃストレートな)私信も多かった。とにかく当時は今ほどネットが本当の意味でワールドワイドではなかった。少なくともおれらにとっては全然もう、ほぼ身内向けのものだった。そしてだからこそとにかく真剣だった。

そうして捌け口があると風呂の栓が抜けたように全力で一箇所から吐き出されてしまう感情が惜しい、と感じた記憶がある。特に表現の仕方に凝っている日記なんかを見るともったいなくてしょうがなかった。それは多分おれがちょうど表現者としての自覚が強くなり、自分は他人とは違うんだという感覚に酔い切っていた頃だからだろうとも思う。おれだったらそれで詞が一編書けるぜ、ミクシィ日記なんかに書いちゃったらもったいない、もっとなんかきちんとした表現にその感情と労力をぶつけろよ、と思っていた。
まあ今となってはあの日記たちはじゅうぶんに立派な表現であった、おれのようなアーティスト気取りよりはよっぽど謙虚で自然で、だから良い表現であったとも言える、と思う。しかし感情が(時には誇張されさえして)一箇所から吐き出される、ということの不自然についてはやはり簡単には見過ごせない。本来は一箇所から勢いよく噴出するのではなく、内側に醸され外側には香るべきものだと思うからだ(本来は、という言い方があらゆる場面で老害の伝統的な武器として虚しく空を切り続けることのブルージーな味わい…)。これは表現者を標榜する人間においても、いやむしろ専門家であるならば尚更、必要なファクターがこの「いちど出口を塞いで内側で醸成する」という過程にあると信じる。
あまりに使い勝手の良い捌け口があると(SNSというのはそもそもそのためにあるから、多くの人の感情や欲求がいかにスムーズに一つのはけ口へ向かって流れていくか、企業の開発者はそのための水路作りに日夜励んでいるはずだ)、表現されようと準備されて内圧が高まっていく、その結果ついに耐えきれず爆発して表現に至る、その時に初めて表現に乗るきれいな怨念が、蓄えられるということがなくなってしまう。

おれは例えば散歩をしながら、「ああ、今おれがここでこうしていることを誰も知らない!」と強烈な感情に打たれることがある。ほとんど感動すると言ってもいいような強い気分を味わうこともある。そのなかには、無理やり名前をつけるとしても嬉しさ、淋しさ、疲労感、徒労感、達成感、野蛮さ、高潔さ、どちらも向いてないやはり名前のない気分、色んな方向の感情が含まれている。その状態を今すぐ短い言葉にしてSNSに流したい、と考えることもある。でもそれをすぐに吐き出さずに自分の中に溜め込んでおく、というのは自分自身にものすごく栄養になっているんじゃないかと思っている。
このことを孤独というのじゃないかと思う。孤独というととかく寂寥感と結び付けられがちだし、辞書的にもそういう意味があるのかもしれないけれど、いや、孤独はいいものだよ、とおれは思うんだな。いや、これを寂寥感と言い換えたとして、それならば今度は寂寥感という言葉にどれだけ多くの複雑な、「寂しくて困ったな」以外の味わいの感覚が込められ得るかと食い下がったっていい。

そんなふうに個人的には概念の呼称としての言葉を常に不安定で豊かなものと捉えていたいと思うと同時に、簡略化、記号化、省略化して利用することで多くの人と共有することができるようになるという効果の方が一般的に強いということも理解しているつもり。つまり、言葉の持つ意味は使う人それぞれに違って然るべきだけれど、誰しもがそう考えているわけではないということを理解する必要がある。相手の使った言葉に込められた意味や意図を機敏に慎重に考えるべきで、なおかつ自分の使う言葉にはできるだけ限定的な意味を与えなければいけない場面もある。聞くときは誤解しないように気をつけ、話すときは誤解されないように気をつけるってことか。

「インスタ映え」という言葉が誕生し、それが笑われつつある状況をおれが喜んでいるわけには、これに脅かされた映え愛好家達が自分自身の虚栄心と向き合い投稿をためらう、その少しの瞬間に働く想像力が今後醸すことになるかもしれないものと、その総量の大きさに想いを馳せ心をときめかせている、という説明を与えるべきかと思う。
そして、かつて自分の青春時代に無駄に垂れ流されると嘆いていた情念にこれから改めて報いがあると思ったわけではないが、現代のネットリテラシーの礎を作るための、その実験台となった世代であるおれたちが「歴史は繰り返すのね、グフグフ」と溜飲を下げる、格好の肴が10年経ってもたらされた、と言うことぐらいはできるかもしれない。

安易に名前で括って、しかもその名前を多くの場合貶められることに使われてしまった概念の存在は、本当は憂うべきこと。でも「インスタ映え」の尊い犠牲によって、安易さの恐怖に新しく気付く人がもしかしたら1人でもいるかもしれない。
「いいね」の回収に躍起になる人たちがいるのを、時代全体が困窮して承認欲求が云々と言っている分析を見るけれど、風呂の栓が抜ければ水はそこからのみ吹き出るものだし、そうしてそこに単方向の水の流れがあるものだとなれば、その流れを利用して心の拠り所を作ろうとする人がいるのは、至極当然のことのように思える。「インスタ映え」という呪詛の誕生が、新しい風呂の栓になるとは言わぬまでも、その穴にちょっと引っかかって流れを悪くさせるゴミのような効果を果たすかもしれない、そうなったらいいんじゃないかと、思った次第です。

そういえばたびたびこのブログにも登場する岡野玲子さんの陰陽師の序盤に(読んでないけど恐らく夢枕獏さんの原作にも同じように)「この世で一番短い呪とは、名だ」というような台詞があったな。陰陽師の作中で使われる呪というのは、これまた単に呪いという意味とはまた違ったのだと思う。それだけのことを知るにも当の本を読んで、なおじっくり考える必要がある。