災害の報せに慣れている

(7/7記)西日本の雨がすごい。ツイッターを見ていると凄惨な写真が流れてくる。つい先日大きな地震が関西であったばかりで、その前は何があったっけな…熊本はいつだったっけ?となる。川が氾濫して二階まで浸水する地域があり、さらにアルミ工場の爆発のようなこともあったみたい。ニュースが錯綜していて、ひとつひとつのことがらを把握することもなかなか難しい。


(7/10記)そこに集中力を使おうとするのを身体が静かに拒否している感じもある。2011年の地震のことが大きすぎて(おれより少し上の世代の人たちは関西の地震のことのほうを意識する人が多いのかもしれん)、もうあの気分を味わいたくない、と直接の被災者以外は防衛を働かせてしまうのかもしれない。

変わらず新鮮な気持ちと態度で新しい災害に反応できる人もあれば、マスコミ批判と擁護、行政の批判と擁護、自分だけが冷静で俯瞰した視点を持っているとアピールするツイッタラー(この文章にもこれにすこし似た感じがあるかもしれない)、あらゆる点で2011年の焼き直しのように思う。現地の人がSNSでおどけた投稿をしていることにだけは本当に救われる。

それまでの自分の呑気な暮らしや思考を反省した人も、瞬間的にうわべだけ左翼的思想にかぶれて恥じながらこっそり逃げ帰ってきた人も、それらの人を斜に構えて眺めて苦々しい表情をしていた人も、その反省が活かせているのか。なんとなく時間が経って気分が落ち着いて、そのままなあなあになっていないだろうか。

時間の経過が救ってくれること自体は(忘れまいといちど誓ったことを忘れてしまうことも含め)、それはどちらかというと良いことだと思いつつ、おれはあのときのツケが回ってきたなと感じてまたえらく落ち込んでしまった。こんなときに相変わらず何もできないままの自分に向かって嫌悪を抱くということの方が、被害自体を悼むことよりも先に立ってずっと眼前に立ち塞がっているという状態、それが一番腹が立つ。

100人以上の人が亡くなっている、その事実はやはり2011年の津波で数万人が亡くなったということに比べて小さなことだろうか。ある面ではそれは真実だろうと思うし、その規模で物事を考えて対処しなきゃいけない立場にある人もいるはず。おれは個人的に、直接の犠牲者とそれ以外の人間の間の圧倒的な断絶について考え続け、そこに自分のとるべき態度のヒントを探したいと思う。その断絶についてだけ言えば、犠牲者の人数は全く関わりがないはずのものとして。

この文章には全く意味がない。そういえばそんな歌もあの地震のすぐあとに作った。意味を求めているのではないんだと言い張りながら、意味のなさに打ちひしがれている。何も変わっていない。何も変わっていないことにまたがっくりきているし、悪くなってはいないのかも、と思って少し安心しさえしている。

これが答えだ、と思えるようなものは機嫌のいいときにしか出てこない。