2年前の話、1年前の話

間が空いてしまった。悔しい。

前回の記事を書いた時に続き今度も旅行中に別の本を読んでいた。再読と思っていたけれども三度目だったことが、自分が前に書いた記事をブログ内で検索して読み返してわかった。


その記事
http://hirakuyoshimura.hateblo.jp/entry/2016/10/04/181306
今日の記事を最後まで読む気がある人はまず先にこちらを読んでからにしてほしい。読んでもらった前提で今日の記事を書きます。

大江健三郎の名前を出すと友達の保守派の人間は顔をしかめるけれども、もしおれたちが50年くらい早く生まれていたとしたら友達になれなかったかもしれない、つまりそういう時代としての違いが、そのままおれたちと大江氏との間にも人間的背景の違いとして当然あるわけだ。生まれて過ごした時代が違う。それは本質的な違いだと思う。今は右も左も穏やかにお互いの話を聞くということも、聞いた上でさっぱり気にしないということもできる時代だろうと思う。実際その友達ともお互いの人間を見るときにその手のフィルターはかけないように関わることが簡単にできている。ノンポリは死ねという槍が飛んできそうだけれど、、一時期盛り上がった、普段から政治の話をしようという意見、おれは現状あれには賛成しかねる。もっと真剣に考え続けてきた人同士なら健康に議論もできるのかもしれん。
ともかくおれはイデオロギーというものが嫌いだということを言っておきたい。尊重するに値するきれいなイデオロギーというものを見たことがないだけかもしれないけれど。うまいウニを知らないからウニが嫌い、みたいな。まあいいか。本の中では政治的要素は皆無で、特にこのお話の中では信仰を持たない人間が信仰について考え続ける、という筋。

さて上にリンクを貼った2年前の記事について言及して掘り下げるようなことは特にやりません。ただ単にあれから2年も経つのかあ、と感慨深かったので。「人生の親戚」から抜き出している部分、今のおれでも同じ部分を引用したくなるだろうなと思った。

今回この本を読もうと手に取った理由は、つい最近子供を亡くした友達の話を聞いたからなのだけれど、この本の中でも、悲惨な仕方で子供を亡くした母親に宛てて送られる手紙の中で、まさに今のおれの気持ちと近い描写がある。今度は引用紹介はしない、どうか是非この本を読んでみてほしいと思う。その友達からは直接連絡を受けたわけではないので、こちらからも直接励ましの連絡をするというようなことはしていないのだけれど…極端に簡単にいうならば、かける言葉もない。

2年前のブログのポストのなかに合唱団が始まってから半年と書いてあるので、2018年は三年目になるということ。この日の記事を読んで色々と考えた。端的に言って頑張りたい。おれだけが多少頑張ったところで何になるわけでもないから難しい話ではあるけれど…ともかく気持ちとして書いておくことは無意味ではないと信じて書いておく。もちろん引き続き参加者は募集しています。ストイックな感じはなく、けっこう明るくやってると思います。

こちらもただ懐かしく思い出しただけという話をするのだけれど、今からちょうど1年前、よしむらひらくメールマガジンを読んでくれていた方には覚えている方もあると思う、富山でライブをやり、帰りの新幹線をキャンセルして金沢へ行き、糸魚川へ行き、松本へ行き、東京に帰るということをした。あの旅行のことはついこないだのことのように思い出せる。ものすごく印象深い四日間だったので、旅費を支援してくださった方々には今もとても感謝しています。
支援はともかく、また行き当たりばったりの旅はやりたい。

http://hirakuyoshimura.hateblo.jp/entry/2017/08/14/162201
メールマガジンの臨時号、旅行の初日ぶんだけ転載したブログのポスト。ちょうど一年前の今日。

この旅行の中で考えたことは今の自分に繋がることとしてとても重要なことだったと感じるのに加えて、このときに見た景色と空気のことをよく思い出す。
東京を終の住処にしたくはないなという気持ちはずっとあるし、旅をし続けたいという気持ちと合わせて考えるなら、拠点だけ東京に置いておいて基本的に旅をし続ける生活というのがちょうどいい落とし所なのかもしれない。何十年後になるか見当もつかんけど。

内田るんさんがツイッターで、35までは若者の最年長という感覚だったのが36から中年の最年少者として気分が変わったというようなことを書いていられた。おれは31になった今ちょうど似たような感覚で未来のことを考えるようになったので、例えば5年後にもまた同じような明るい転換が待っているのかもしれないなととても勇気付けられた。未来はひたすらに明るいな。

未来は明るい、と思うことが死者に対して何かいけないことのような、もっといえば楽しいとかおもしろいとかいう感情を持つことすら何か後ろめたいような、そんな風な心配があるのはわかる。
悼むやり方は人それぞれでいいと思うけれど、楽しいと思うこと、希望を持って先の時間について考えることをしてはいけないなんていうことは絶対にない。神妙な顔をしていたいと自分が考えるならそうするのがいいと思う。いつの間にか笑って生きている自分を発見した時には、自分を責めるように気に病む必要は一切ないはずだろうと、おれは思う。自然に笑えたなら気にせず笑っていればいい。逆にどうしても笑えないならしばらくそのままでいればいい。どちらも自然なことで、悪いことじゃない。